どんなにいびつでも、預かっている命(早坂あゆみさん #4)

考えてみれば、私たち自身の命も預かりものなのだ。みな命は自分で獲得したものではなく、与えられたものである。だから、自分の好き勝手にはできない。

命に形があるなら、私の命はきっといびつだろう。自己チューで偏屈。人を傷つけ迷惑もたくさんかけた。過去のあやまちを振り返ると、罪悪感にさいなまれ人生を投げ出したくなる。しかし、どんなにいびつでも、預かりものだと思えばぞんざいには扱えない。自分の苦しさや、自分自身と距離を置くこともできる。

命が預かりものなら、それにくっついてくる才能や美貌なども預かりものなのだ。自分が努力して得たものではない。だから決して思い上がることなく、人や世の中に返していかなければいけないのだろう。

先月亡くなられた坂本龍一さんは、若い頃は毎日朝まで飲んで「刹那的に生きていた」と語っていた。そして後年、過度の飲酒が一因といわれる中咽頭がんになる。芸術家や天才の破天荒な生き様は魅力的だ。創作の源にもなるだろう。

でも、もう少し節制して生きてくれていたら、私たちはもっと彼の素晴らしい音楽を聴けたかもしれない。坂本さんは被災地の復興にも尽力されていた。地元の人びとは大きな支えを失い、本当に悲しんでいる。

坂本さんのような才能に恵まれていなくても、自分に預けられた命を、他人を幸せにするために大切にし、使い切ること。それも愛なのだ。

「おうちへ帰ろう」では、障害児の里親が紹介されていた。看護師で同じように障害のある子どもたちを見てきた彼女は「育てられなかった親の思いを引き継いで、ちゃんと育てたい」と語る。私にはとても真似できないが、その言葉に打たれた。せめて、小さな命がいつか返される世の中を、「おうち」のように居心地良くできないか。いびつな命は、いびつなりに、少しでも良い形にして子どもたちに返したいと思う。

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