スピッツさん(ふつうエッセイ #632)

2年前、若手の女性歌手が、ベテランバンドのスピッツを「スピッツ」と呼んだことが一部で「問題視」されていた。

否定的な意見はこうだ。

「先輩なんだから『スピッツ』じゃなくて、『スピッツさん』だろう」。

ちなみにスピッツは、自分たちのことを「スピッツさん」と呼ばれることを嫌がっているらしい。真偽のほどは分からないが、その話を聞いて深くため息をついたのを憶えている。

いつから僕たちは、企業やグループ、ユニット名にまで「さん」「さま」をつけるようになったのだろうか。確かに企業は法人格という「人格」を持つけれど、それは言葉のあやというもので、そこには人間と同じような「人格」など存在し得ない。まして企業というものは、創業者でさえも、いつかは在籍が叶わなくなってしまう代物だ。あくまで仕事をしていくための器であり、器に敬称をつけるのは、いき過ぎた敬意といえるだろう。

また「先輩だから」という物言いも気になるところ。

上下関係の厳しい芸能界では、とかく年長者に対しては敬う態度が見られるものの、そうでなければ途端に「〜〜くん」「〜〜ちゃん」「〜〜!(呼び捨て)」となる。企業ではもはや、「〜〜ちゃん」など使っていたら、何らかのハラスメントで糾弾されることだろう。そういう時代なのだ。

色々なことが複雑に絡まっている。

いき過ぎと、配慮の欠如。両極端とはいわないけれど、軸足の置き方に迷っている人が大勢いるように感じる。スピッツに「さん」などつける必要はない。「さん」なんてつけなくても、音楽を心から愛することは可能なはずだ。

いき過ぎた敬意の真ん中に、本物の敬意はあるだろうか。

いまいちど、胸に手をあてて問い直してみたい。