憂鬱から始める(ふつうエッセイ #309)

ポジティブであることが、価値だとされる時代だ。

なるべくネガティブな状態(怒り、悲しみ、憂鬱、憤りなど)は回避すべく、あらゆる手段でポジティブ変換できる人が賞賛される。

だが果たして、ネガティブな状態というのは望ましくないのだろうか。

「憂鬱」という言葉、漢字が示すものは明るい響きではない。ただ実際のところ、世の中には恒常的に「鬱」を抱えている人も少なくない。じゃあ、彼らは不幸なんだろうか。何の楽しさも見出せていないのだろうか。

必ずしも、そうとはいえないだろう。

確かに、鬱症状が重くなると、自己肯定感や自己効力感をなくしてしまう。自分の気付かぬうちに重症化してしまうので、定期的に医師の診断を受ける必要はある。それっていわゆる定期検診であり、そんなに「重い」ことではない。例えば僕は、視力が低い。中学生のときから20年以上コンタクトレンズを装着している。不便だと感じることはあっても、不幸だと感じることはない。

同じように「憂鬱」という状態は、少しだけ不便かもしれないけれど、必ずしも不幸とはいえないはずだ。

恒常的にネガティブな状態を抱えながらも、折り合いをつけて生きていくことは可能だ。「ああ、何だか憂鬱だな」と感じても、1日の中で楽しみや喜びを見出すことはできる。

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昨日は、第26回参議院議員選挙だった。

結果的に与党が大勝だったわけだが、手放しでハッピーな気持ちの人はいないはず。政治イシューは山積していて、喫緊の課題はいくつもある。

野党を支持してきた人は、憂鬱な気持ちを抱えているだろう。でも上述の通り、憂鬱から始めれば良い。

「「負けたことがある」というのがいつか大きな財産になる」というのは、漫画『スラムダンク』の名言のひとつだが、その悔しさや憤りが大きいからこそ、政府の施策のひとつひとつに敏感になれるはずだ。

憂鬱から始める。

一区切りなのは間違いない。だから少し休んだら、また歩き出しましょう。