腕を食べたくなるのは、はたして愛なのか。(李生美さん #1)

カニバリズムとは少し離れるが、亡くなった親近者を偲ぶために遺骨を食べる「骨噛み」という風習がかつて存在していた。現在においても遺骨を食べる人がいると聞く。それは風習とは別に、愛する人が自分の一部となることで、共に生きていきたいという願望の表れなのかもしれない。
そして大昔には食糧不足により人肉を食べることもあり、病を治す薬的な役割も担っていた。

カニバリズムには、その人でなければいけないものと、単に肉として捉えているものがある。
どちらも欲望から端を発するものだけど、前者には歪んでいながらも、愛の片鱗が窺える。(もちろん、愛があろうとなかろうと法を犯す行為はアウトだが)

わたしの場合は仲良くなったり、距離が近づいた人に対して、「腕を食べたい」という欲望が訪れる。男性であれば、腕もしくは肩を食べたくなる。
食に対する執着は小さいころからあった。空腹を満たす快楽に身をゆだねる時間が好きだった。腕を食べたくなるのは、食と快楽が強く結びついているからかもしれない。赤の他人であったり、知人程度の人の腕には毛の先ほどの興味を持てないので、その人との時間の積み重ね、交わりの頻度が食べたいという欲望を生んでいることになる。
もっと知りたいから食べたくなる。さらにいうと、自分の食べたいという欲望にどこまで応えてくれるかを計る意図も、少なからずあるのかもしれない。

関係が薄い人ほど、優しくできたりすることがある。その一瞬だけを取り繕えばいいから。

取り繕った優しさを剥ぎ取った先に、愛から生まれる優しさを手に入れられる。
それは、人に興味を持つことからはじまる。その人のことをもっと知りたい、受け入れられたいという気持ちの表れが、わたしの場合は「腕を食べたい」に繋がっているのかもしれない。

それは愛に対するイニシエーション。なんて、大層なことなのかは分からない。
ただ分かるのは、好きだから腕を食べたくなるということ。
これから何人の腕を食べたくなるのかは分からないけど、愛のとっかかりとしての欲望には素直であろう思う。もちろん、嫌われるリスクを背負いながら。

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