寝首を掻く(ふつうエッセイ #306)

眠っているところを襲撃し、その首を切り落とす。それが「寝首を掻く」だ。

現在では「卑怯な計略と知っていて他者を攻撃する」という意味で使われているが、正直なところ、本来の意味とバランスが取れていない。

もちろん寝首を掻くような狡猾な手を使って、相手を貶めてはいけない。それは厳しく糾弾されるべきものだ。倫理な観点からも積極的に自制してほしいと思う。

とはいえ、なんせ、首を落とされるのだ。

解雇されることを「首切り」と表現されることもあるが、首の重さを何だと思っているのだろう。もちろん生活の危機に瀕するわけで、解雇されたらものすごく大変ではある。

軽々しく企業は解雇や雇い止めなどしてはいけないと思うが、しかしこの文明社会において、仕事ごときで生命を失う必要なんてない。解雇された側が「首を切られてしまった」と絶望するのはあまりに辛いので、それこそ「解雇されても首はつながっている」と思ってほしい。

古い言葉が、アンバランスな形で現在に使われているケースもあれば、新しく生み出される言葉も首を傾げてしまうものがある。

自粛要請という言葉は、その典型例だろう。

たびたび指摘されているが、自粛とは「自ら粛する」と決めることであり、一方で要請とは「他者から請われる」ことだ。主体が矛盾をきたしているわけだから、自粛要請がなされていない(=多数の人が外出していた)状態についてどこに責を求めるのかは謎なのである。

もっと真摯に「今だけは、感染拡大を防ぐために外出を控えてください」と求めれば良い。「熱中症の危険があるので外出を控えてください」と同じではないか。(もちろん科学的根拠の有無が問われるわけだが)

それを蔑ろにし、コロナ禍ものうのうと2年半が経過してしまった。

誰も責任を取らず、今週末をきっかけに、また新しい政治体制が築かれようとしている。いまから暗澹たる気持ちだが、何とか自分の持ち場でできる限りのことをしようと思う。

負けない。コロナに、じゃなくて。