かくことは、「愛するもの」なのかもしれない<前編> / オタク気質女子の戯言(ももさん #3)

吐き出せない世の中と、気づけない私たち

私たちは実に多くの感情と思考と言葉を抱えながら、毎日を必死に生きています。でも、それらを発言するのはなぜか憚られがち。たしかに忖度や気遣いは社会生活において重要ですが、そんな世の中にちょっとした生きづらさを感じています。

たとえば、最初は今日行った場所の感想を伝えるためにSNSを開いたのに、最終的にはテキストを打つことを諦めることが私にはよくあります。「誰が興味あるんだろう」「自己満だな」と思い、代わりにおしゃれな写真だけをInstagramのストーリーにあげる……。こうして、思ったことを周りに伝えることだけでなく、自分の想いと向き合うことすら放棄して、感情にふたをしてしまう……。

これは自分だけかと思っていたのですが、実はそういう人って多いようです。想いを発信する手段は増えているはずなのに、想いを吐き出せないもどかしさはいつになっても消えない。それどころか、自分の想いに気づけない人もいる。悲しくて、悔しいことです。

本当はもっと遠慮せずに、自分を表現しても良いはずなのにな。少なくとも、自分の中では。

そんなことを考えています。

「かくこと」は自分と向き合うためのツール

その手段として、「かくこと」は有効です。

文章でも、メモでも、イラストでも、ポエムでもいい。自分の想いと向き合って、なにかに記していれば。かいたものを誰かに必ず見せる必要はまったくないですし、自分でも見返したくないのならすぐに破り捨ててもいいと思います。

それに、かくことは万国共通で、特別なスキルがなくてもできること。文字である必要もないので、平等なんです。(強いていえば、どこでもかけるものはあったほうがいいので、今すぐにでも世界中の人に鉛筆と紙を渡したいな)

そのときの自分の気持ちと向き合っているのであれば、それは立派な「かく」行為。誰かに見てもらう以前に自分に自分を見てもらうことと言っても、過言ではありません。学生の頃に先生に点数をつけられた作文とは違い、もっと自由なんです。

長くなってきたので今日はここまで。次回は最終回です。

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