壊れる椅子たち(ふつうエッセイ #204)

我が家のソファが壊れた。

体重をかけ過ぎたのか、一方の肘掛けが歪んで、椅子の足部分が直立しない状態になってしまった。

ソファは毎日座るものだ。子どもも寄り掛かる。その拍子に「事故」が起こる可能性もあるので、早々に粗大ゴミ集荷を依頼した。

ソファは、新居に引っ越したときに、義姉からいただいたものだ。10年以上使っているにも関わらず座り心地は良好だった。廃棄は残念だけど、十分元は取っただろう。

同じタイミングで、実家のリクライニングチェアも壊れた。

帰省中に座ったら、ガリっと音を立てて、割れ目が入ったのだ。

祖父がプレゼントしてくれたリクライニングチェアで、30年以上もの間、現役として使われていた。今は椅子はしまわれ、リビングはぽっかりと穴が空いている。

壊れたものは、

・そのままにする
・修理する
・譲渡する
・廃棄する

の、いずれかの手段を取ることになる。僕がもっと器用だったら修理という方法を取ったかもしれない。

だが、修理という方法が取れたとしても、壊れた椅子たちは、なかなかに壊れている。もはや修復可能で、持ち主の決断を待っているようにも思えるほどだ。

壊れる椅子たちから漂う哀愁は、きっと過去の思い出によるものだ。

過去の思い出が良かったからこそ、壊れる椅子たちへの思いが募るのだろう。

その思い出がちゃんと残っているから、壊れる椅子をきちんと成仏させようと思えるのかもしれない。