This is (not) love(今井峻介さん #3)

さて。

これまでの話を踏まえて考えてほしい。

これは愛だろうか?

僕はこどもたちを愛しているからこのような選択をしたと言えるだろうか?

僕が責任を果たすという認識でやっていることを愛と呼べるだろうか?

この選択は愛からくる行為なのだろうか?

僕は、これは責任だと思っている。愛ではない。そのことに特に問題ではない。重要なのは行為そのものであり、その行為がどんな感情によって動機づけられているかではないからだ。

こどものことを考える。こどものために何かをする。そういった行為はこどもに対する愛情から生まれている。愛情が湧き、溢れる。それかこどものための行為につながる。

水源から湧き出た愛情が清流となって、一つの大きな流れを作っていく。潤沢で、澄んでいて、陽にあたってきらめく流れ。その流れが自分を動かす。イメージとしてわかりやすい。

しかし、僕の中に水源はない。あったとしても見落とされるくらいわずかな湧水だろう。流れになる前に地中に吸い込まれてしまう。

しかし、代わりに睡蓮の咲く淀んだ池がある。雨が流れ込んで泥で濁った川がある。硫黄の匂いのする温泉が湧き出ている。それらが混ざり合って、一つの流れになる。不純物が多く、濁っていて、ぬるい流れ。流れはエネルギーだ。流れは人を動かす。どんなものであっても。

自分の中に水源がないことを嘆いたりはしない。

「配られたカードで勝負するしかないのさ…..それがどういう意味であれ。(You play with the cards you’re dealt …whatever that means.)」。スヌーピーの言う通り、結局のところ、人はやれることをやるしかない。

僕の責任は名もなき感情と共に流れを生み出す。その流れは僕を動かし、嶺と然を動かすだろう。2人がどこに向かうかはわからない。どこだっていい。2人は僕が想像もしないところにたどり着くのだろう。そこで、2人が何を感じるかはわからない。幸せかもしれないし、不幸かもしれない。何か大きな問題を抱えることになるかもしれない。しかし、そんなことはどうだっていい。たどりついたその場所で、言葉と可能性から自由になって、この忌まわしくも美しい世界を楽しみながら生き抜いてほしい。それだけを願っている。その願いが愛なのかどうか、僕は知らない。知りたくもない。

──

1 2 3 4