だが、情熱はない(ふつうエッセイ #620)

テレビドラマ「だが、情熱はある」にかこつけたタイトルだが、そこに込めた思いなんて、皆無。薄っぺらいものだ。

でも案外「情熱」という言葉には色々ヒントが隠されているように思う。

つまり、どこに情熱を置くかによって、人間というのは一人ひとり異なっているということだ。あるいは、一人ひとりの様々な情熱を受け入れることによって、多様性は担保されるのかもしれない。

もちろん、情熱にも色々あろう。誤った方向に猛進してしまった情熱は厄介だ。誰も止められない。でも、多くの人が情熱を傾けそうな物事に、あえて情熱を向けずにいることも、ある意味では情熱的といえるのではないだろうか。

幼少期、何事にもドライで、感情の起伏がないクラスメイトがいた。でも、だからこそ彼が話す言葉の一つひとつには重みがあり、独特のユーモアもあった。誰からも一目置かれる存在だったと思う。

楽しそうなことに、情熱を傾けられるのも才能だ。

だけど、だからといって無理やり情熱を傾けていてもつらいもの。

時には、情熱から距離を置くことも大切ではないだろうか。それは世間を憂うような感覚ではなく、あえて「情熱を傾けない」という意思決定をするということだ。そこには情熱はない。だけど、だからこそ情熱的ともいえるのだ。