3通目「あなたのためを思ってしたのに」(山本夕紀さん #3)

でもさ、誰かを幸せにするって本当に難しいと思うんだ。

ありがた迷惑という言葉があるくらいだから、心底その人のためを思ってしたはずのことなのに、相手をうまく喜ばせられなかったり力になれないことってどうしてもあるんじゃないだろうか。
そしてそれはもう誰のせいでもなくて、仕方のないことだと思う。

でもじゃあ、本当に幸せにしてあげられたかどうかは置いておいて、「幸せにします!」と言って、相手のためを思って何かすることに愛はあるのだろうか?今回はそのことを考えてみた。

結果的にありがた迷惑になってしまった時、ただのおせっかいになってしまった時、そこに愛は本当にあるのだろうか?

色々と考えた結論、私はあると思う。
思い返せば、若ければ若いほどそんなことばっかりだった気もする。

大学生の頃、当時の彼との一年記念日にデートをした。
喜んでほしくて張り切って準備をしたものの、残念ながらあまり相手の好みの一日ではなかったようで、思ったような反応が返ってこなかった。とても悲しくて、一日の終わりに私はつい、「〜のためにやったのに。せっかくなんだからもっと楽しんでよ!」と、半ば投げやりな感じでそんなことを言ってしまったことがある。

こんなことを言ったら、ただでさえ楽しめなかったその一日がもっと楽しくなくなってしまう。
今冷静に考えると、私は相手を喜ばせたいと本当に思っていたのか。と、問いたいくらいだ。

でもきっと、当時の私に先の質問を尋ねたなら「思ってるわ!!」と、半泣きで怒って返事をするだろう。

準備をした私も当日の私も、もちろん悪気なんてなくて、むしろ一生懸命で、相手のことが大好きだったから頑張った。その分、上手に喜ばせられなかったという事実が、余計に苦しかった。

さらに言うと、その時の私が、実はその人のことを愛そうとしたわけではなく「彼を喜ばせようとする自分」に酔っていたかというと、そうではない。
ただ、私はまだまだ相手のことを知らず、合わせるということがうまくできなかっただけなのだ。だからもっと彼のことを知っていて、多くのことに配慮できたなら彼は心底楽しんでくれたかもしれない。

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