ChatGPTと牛丼チェーン店のサラダ(ふつうエッセイ #578)

OpenAIのチャットボットサービス「ChatGPT」が話題になっている。職業柄、もちろんチェックしている。人並み以上に考え、考えすぎて、もはやドラえもんの映画まで思い出す始末だ。

結局のところ、なかなかどうして、ChatGPTが隆盛する未来に希望を見出すことができない。

テクノロジーに明るい人はいう。「どんな技術も道具に過ぎない。全部、人間がどう利用するかだ」。それはもっともなんだけど、人間を信頼して作られたTwitterというサービスがもたらした様々な弊害は、もはや説明するまでもないだろう。

Twitterだって、見るに耐えない誹謗中傷をするのは一部の人たちだ。多くの善意ある人たちは、Twitterで誹謗中傷はしないし、Twitterが弊害をもたらしたというのは「言い過ぎ」という意見もあろうと思う。僕もそれは否定しない。でも、そうはいっても、実際にTwitterが現在の分断を加速した側面はあるだろう。それは個人なり法人なり特定の責任を負わすものではないけれど、あくまで「直感的に」Twitterの負の部分が寄与していることは間違いないと感じている。

同じように、ChatGPTも、人間にとって「大事な部分」を根こそぎ代替してしまうリスクがあるように思う。語り出すとキリがないので、今日は牛丼チェーン店のサラダについて語ってみようと思う。あくまでメタファーとして。(メタファーと言わずに語り始めた方がスマートだったかなと、ちょっと後悔している)

牛丼チェーン店で、僕はだいたい牛丼のみを食べる。セットメニューにはしない。なぜならサラダは割高に感じるからだ。だいたいサラダは150円前後の値段がつけられている。150円あったら、キャベツやレタスを丸々1個購入することができる。牛丼は煮込んだり、タレの配分を考えたりする企業努力があるだろうが、サラダは野菜を切るだけだ。(むしろ、保存のために使われている化学物質的なるものは、僕の心をざわざわさせる)

ということで、牛丼チェーン店のサラダは久しく食べていなかったのだが。先日牛丼を注文したら、サラダ無料券なるものをいただいた。せっかくだからとサラダを注文して、ようやく合点がいった。

ああ、ChatGPTの需要の源流は、牛丼チェーン店のサラダだったんだと。

サラダは、「野菜A+野菜B+野菜C・・・+切る+ドレッシング」という構成だ。重要なのは、作るではない。作るのが面倒ではなく、野菜を調達することが面倒なのだ。スーパーや青果店に足を運ぶのが面倒くさい。でも野菜としての成分は摂取したいから、牛丼チェーン店でサラダを注文する。それで野菜を満たしたという「言い訳」を作ることができるのだ。そう考えると、150円は安い。

ChatGPTも同じだ。書くのが面倒でなく、その前に「考える」ことが面倒なのだ。何を書いたら良いんだろう、と悩む時間がもったいない。だから、答えらしきものをChatGPTに求めるのではないだろうか。

「考える」という、生物上、人間が最も強みとして持ち得る武器が、AIに代替することになったら、人間の良さとは何だろうか。「ドラえもん のび太のブリキの迷宮」では、自動運転してくれるカプセルに依存してしまい人間が歩けなくなったという惨状を映し出した。近い未来を予見した映画として、今、最も再評価されるべき作品ではないかと思っている。

同じように、考えられなくなった人間のことを想像してみる。その末路は、悲惨以外のなにものでもない。考えろ!なんて声高に主張はしないけれど、少なくとも、身の回りの家族や友人とは、考えるプロセスをずっと楽しんでいたいと思うのだ。現実は、ドラえもんではない。迷宮入りするわけにはいかない、ずっとエモい世界を楽しむのだ。