時間がない中で(ふつうエッセイ #357)

なんやかや、人間というのは時間に縛られて生きている。

それは納期とか、締め切りとか、仕事における文脈で使われることが多いけれど。たとえば今日は、最近4歳の息子が好きになった「暴太郎戦隊ドンブラザーズ」が放送される日だった。僕たちの家族は、あまりテレビを観ることはなく(NetflixとかAmazon Prime Videoとかで動画は観ます)、気付けば放送時間である9:30〜10:00が過ぎてしまったのだ。

僕は思わず「あっ!」という声をあげたのだが、息子は気付く気配が全くない。前日にドンブラザーズの映画を鑑賞したにも関わらず、テレビドラマのリアルタイム視聴のことを全く気に留めていないのだ。(実際のところ時を置いて、Amazon Prime Videoにも最新話が配信されるので、どうしても観たければそちらを視聴すれば良い)

時間がない。時間に縛られている。

ひと昔前は、そんな状況が当たり前だった。冒頭で記した通り、いまでも仕事には、納期や締め切りが付き物だ。

だがその「縛り」というのは、少しずつ緩んでいるように思う。1日くらいズレても良いじゃないか、という感覚が、わりとふつうになっているのではないかと思う。

僕が「緩い」性格だからだろうか。勘違いだろうか。

でも実際に、グローバル化だったり、副業が当たり前になったりしている時代で、「即レス」というものが前提ではなくなった。時差もあれば、本業もある。それでも色々な事情で、「即レス」でない非同期コミュニケーションが総合的には有効になっていたりするわけで。

だんだんと、メタバースやマルチバースというものが現実に侵食していくたび、もっと時間の概念は希薄になっていくような気がする。時間のことで愚痴を言っている人は、ワンユニバースというか、ひとつの世界線でしか生きていないという証左にもなりかねない。

だからこそ、「時間にきっちりする」ことは価値になりそうではある。だが大きなうねりの中で、時間という概念がちょっとずつ変化していくと、納期や締め切りのような縛りも徐々になくなっていくのではないだろうか。

……そんなことを書いているとて、目の前の締め切りの仕事にはきっちり応えないといけない。締め切りまでの日数、いや、稼働時間数を指折って確認し、また明日からしっかりと仕事に臨むのである。頑張ろう。