検診とテレビ(ふつうエッセイ #440)

3日連続で健康診断のことを書く。

*

それなりに衝撃だったことのひとつは、検診待ちのテレビの「需要」だ。

手持ち無沙汰で待っている人たちが、ぼんやりと昼過ぎのワイドショーを眺めている。病院の待合室なので、テレビはミュートになっている。精度の低い字幕を頼りに、どんな情報が流れているのかを予測しなければならず、それなりにストレスが溜まる仕様なのだが、みんな一生懸命テレビを観ているのだ。

仕事で考えごとのあった僕は、ノートに色々メモをしていたのだが、あまりにみんながテレビを観ている姿に茫然としてしまった。「ただ待つだけ」とテレビというのは、恐ろしいくらい相性が良いらしい。

以前、「テレビを観ながら飯が食えるか」というエッセイを書いたことがある。

このときも、ついつい観てしまうテレビの力に警鐘のようなものを鳴らしたが、ここまで「需要」があると、考え方を改めないといけないようだ。

そして考えてみれば、健康診断は毎日行なわれているわけで。毎日毎日、この光景が同じように繰り返されていると思うと、背筋が寒くなる。(しかも、みんな病院指定の検診用ウェアに着替えている)

これが極端まで行き着くと、レイ・ブラッドベリ『華氏451度』の世界になるのかなと思うのは、あまり健全でない想像だろうか。

でも、時には「需要」に逆らった方が良い。

ひとも、環境も。毎回「需要」が正しいとは限らないのだから。