かっこいいことができるのに、かっこいいことをやらない(ふつうエッセイ #127)

かっこいい人は、常にかっこよくあってほしい。

誠に勝手な話だけど、そう願うのが凡人だ。

北海道日本ハムファイターズの監督に就任した新庄剛志さんは、就任が発表されてからずっと人々に希望を与えている。あっと驚くような言動は現役の頃から変わらない。プロ野球という、ある意味で権威が幅を利かせたような組織の中で、彼のキャラクターはいつだって輝きを放っていた。

かっこいい人が、常にかっこいいを貫いている象徴のような存在だ。

だが、かっこいい人が、常にかっこいいとは限らない。

むしろ「なんでこんなことをしているんだろう」と首を傾げるような場面もよく見る。(繰り返しになるが、「かっこよくあってほしい」という勝手な幻想を抱いているだけだ)

そこには様々な事情があるのは理解している。恩義がある人からの依頼で断られなかったとか、依頼内容を誤解していたとか、たまたま体調が悪く良いパフォーマンスが発揮できなかったとか。

だけど問題は「やれなかった」ではなく「やらなかった」であり、「やれない」ではなく「やらない」なのだ。過去形と現在形の違いはあれど、何らかの意思があってかっこいいことをやらなかったのは端的に言ってダサい。

その積み重ねは、「かっこいいことをやれないだろう」ではなく「かっこいいいことをやらないだろう」に繋がっていく。

なんでそんな仕事を引き受けたんだろう。もちろん食っていくためには何だってしなくちゃいけない時代なのだけど、そこには超えてはならない一線が存在する。その線の在り処はちゃんと自覚的でありたいし、やむを得ず超えなくてはならないときは相応の覚悟をしておきたい。

そして何より、超えてはならない一線を、超えるか超えないかの意思決定権は他人に委ねてはいけない。

歴史を振り返れば、その権利を他人に白紙委任し続けたとき、どうしようもない惨劇に見舞われている。

今はどうだろうか。胸に手を当てて考えてみたい。

なんてことを、成人の日にひたすら考えていた。かっこよくなれなくとも、かっこよくあれるような大人でいたい。