金と時間を失うという「贅沢」(ふつうエッセイ #441)

今泉力哉監督の最新作「窓辺にて」。

離婚届を提出するため、市役所に向かう主人公の市川が、お喋りなタクシードライバーに絡まれる。運転手はパチンコ愛を市川に熱弁する。ちなみに市川は、酒もタバコもやらない、感情の起伏のない穏やかな中年フリーライターだ。

運転者がなぜパチンコが好きか。それは贅沢だからだという。

「パチンコが贅沢?」と、市川が慌てて問うと、パチンコは時間と金を同時に失うものであり、それゆえ贅沢だというのだ。妙に合点のいく主人公の表情は、それまでのどのシーンよりも明るく見えた。

贅沢とは何か。

高級レストランで食事をすること。海外旅行で散財すること。ゆったりとマッサージを受けること──。意外なことに、具体的なシーンはそれほど浮かんでこない。「ああ、贅沢だなあ」と思う瞬間はそれほどない。(感じる頻度が低いからこそ、贅沢さが価値を帯びるのだが)

だから、「時間と金を同時に失うパチンコは贅沢」という論法に一瞬戸惑いつつも、それもまた、贅沢のひとつの形ではないかという気持ちになった。

いま、僕はこの文章を駅前のカフェで書いている。

まだ幼い子どもたちと同じ時間を過ごすこともできたのだが、午前中は仕事に充てることに決めたのだ。それは贅沢だともいえるし、贅沢でないとも言える。いや、まじで、どっちだろうと分からなくなる。

贅沢とは何だろう。その対義語として倹約や質素などが挙げられるけれど、質素という贅沢があるような気がする。そんな心の在り方に、無限の可能性を感じるのは僕だけじゃないはずだ。