畳むと欲望(ふつうエッセイ #255)

昨年、洗濯乾燥機を購入した。

これによって「洗濯物を干す」「干した洗濯物を取り込む」という工程がなくなり、我が家の家事はとても楽になった。

それでも、いまでは「乾いた洗濯物を畳むのが面倒だ」とさえ思ってしまうのだから、人間の欲というのは果てしない。しかし、なぜ欲というものは次から次へと生まれてしまうのだろうか。

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「我が家の家事はとても楽になった」と書いたけれど、時間に追われて日々を過ごす生活は変わらない。洗濯物を干す時間がなくなったことで捻出された時間は、どこへ消えてしまったのだろうか。

当然のことながら、消えてはいない。

その分、メールチェックをしたり、ダラダラとスマホを眺めたり、あるいは他の家事や育児をしたりと、何かと忙しくしてしまうことが原因だ。

別に、無駄なことに時間を使っているわけではない。

息子と共に、じっくり過ごす時間は掛け替えのないものだ。

洗濯物をハンガーに掛けながら息子の遊びに付き合っていたのが、何もせずに息子の遊びに付き合えるようになった。落ち着いて息子の一挙手一投足に向き合えるのは幸せなことだ。

なのだけど、それを「自由な時間」という項目を充てられないのが、僕の不徳の致すところである。なぜか「家事や育児の時間」という項目へ押しやってしまい、そこに不自由さを感じてしまうという、何とも愚かしい考えを抱いてしまうのだ。

それって、全然「ふつう」じゃないよなあと我ながら思う。

欲望が邪魔をしている。だけど欲望があるからこそ、人は頑張ることができるかもしれない。「欲望」という言葉は、少し傲慢な響きがあるけれど、これと上手く付き合っていければ、幸福感とか安心感とか、そういったものと折り合いをつけていける。

もっと、自分の欲望のことを知ってみたい。

「自分のミッションは何か?」という問いよりも、もっと自分のリアルに迫れるような気がするのだ。