折ると祈る(ふつうエッセイ #400)

部首が異なるだけで、けっこう似ているふたつの言葉。

だけど「折る」と「祈る」ではかなり意味が異なる。

手の動作を表す「てへん」と、神さまを意味する「しめすへん」。部首が意味するものが違うので、当然ながら意味も異なるわけだが、同じ「斤(きん)」が使われているのは何故なのだろう。(このエッセイではその答えは示されませんので、気になる方は今すぐGoogle検索してみてください)

それはさておき、「折る」と「祈る」は他にも似ている点がある

それぞれをローマ字に変換すると、折る=ORU、祈る=INORUとなる。祈るには、「IN」が加わるだけで、それぞれの文字列と語感に共通点が増すというわけだ。これは偶然なのか、それとも必然なのか、これもまた釈然としないところがある。

「ORU」に「IN」する。

考えてみれば、「祈る」には、様々な「折る」動作がある。

頭を垂らす、お辞儀をするなど、身体を折り、神仏に祈りを捧げるのだ。気持ちを「ORU」に込める(INする)という意味で、INORUという言葉が生まれたのかもしれない。

「生まれたのかもしれない」と書いたけれど、実際はたぶん違う。ただの言葉遊びであり、要素を色々とこじつけたに過ぎない。

でも、そんな言葉遊びから、ひょんと要素同士が繋がることもある。そしてそれは、先人たちが「面白いかも」と思って、組み合わせの妙を携えたものの可能性もある。何より、僕らが未来に向けて「これとこれを組み合わせたら楽しいんじゃないか」なんて提示することも可能だ。

それっぽいが、それらしくなる瞬間は、どこで訪れるのだろう。

ギークたちが「それっぽい」と楽しんでいた言葉が、だんだんと市民権を獲得していったりして。その萌芽を、日々リアルタイムで楽しめるのがSNS環境だったりして。(それは少し楽観的かもしれないが)

祈る。祈る日と書いて祝日だけど、祝日に「神さま」が宿っている感覚はあんまりない。令和らしい、祝日の言い方ってあるかもしれない。

言葉遊びは言葉遊びに過ぎないけれど、どんどん楽しんでみようと思う。