無償の愛は存在するか(碧月はるさん #2)

私は、親に謝られた経験はない。私の両親は、何があっても自分の否を認めない人だった。でも、私はそんな彼らに、いつも笑いかけていた。起きたら挨拶をして、素直にいうことを聞き、話しかけられたら笑顔で受け答えをしていた。それは、無償の愛ゆえではない。「そうしないと生きていけない」と、本能で知っていたからだ。

子どもの年齢が幼ければ幼いほど、親なしでは生きられない。食事の用意も、寝床の確保さえも、年端のいかない子どもにはままならないのだ。生き物には、生存本能が備わっている。生き延びるために必要な情報を察知し、少しでも自分の命が生きながらえる方向へと舵を切る。それを「無償の愛」というきれいな言葉でコーティングされたら、子どもの心は呆気なく行き場を失う。

子どもは親を愛し、親は子を愛する。それが本来あるべき姿だと、私も思いたい。しかし、忘れてはならない点がひとつだけある。親と子は、対等じゃない。人としての尊厳においては、当然の如く対等である。ただ、どうしたって力関係が対等ではないのだ。親のほうが体は大きく、腕力も強い。経済的にも自立している場合が多く、語彙が豊富で弁も立つ。何より、大抵の大人は、子どもの言葉より大人の言葉を信じる。だから子どもは、どうしたって親には勝てない。親が子どもと対等であろうと努力してはじめて、子どもの人権は守られる。子どもの人権は、何がなんでも守られるべきものであると同時に、大人の手にかかれば一捻りなのだ。その残酷な現実を、私たち大人の側は、都合よく忘れてはいないだろうか。

「無償の愛」なんて存在しない。私は、そう思っている。そんなものにあぐらをかいて、息子たちの真意を見失いたくない。
愛情を注ぐことと、支配することは違う。我が子のやさしさに甘えて、親子の立場を逆転させるのも違う。バランスを欠いてしまったら、親も子も苦しいばっかりだ。互いに違う人間であることを理解し、その上で思い合うのが理想の姿だと思う。何より大前提として、親は子を守るべき存在であってほしい。私は、そうありたい。

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