謝るけど、反省はしない。(ふつうエッセイ #531)

謝ったり、反省したりするのが「負け」と見なされる時代なのだろうか。

そもそも反省とは、非常に精神的につらい行為ではある。子どもを見ていると、「自分が悪いという状況でも、自分の非を認めたくない」様子を多々目撃する。

子どもの姿を見ると、「結局、大人もポーズをしているばかりで、基本的に子どもと同じなんじゃないか」と思ってしまう。実際に僕も、周囲から反省を促されるようなときに(過去、けっこうそんなシーンはあった)、謝るフリだけしていたようなこともあった気がする。いや、そのときは本当に謝っていたつもりだったのだ。でも、いま振り返ってみると、「いや、でもおれって別に悪くなかったんじゃないか」なんて思ったりする。これは性格の問題だろうか。

いまでも憶えているのは、高校時代だ。

サッカー部が複数の部室を占用していて、何度言っても改善しない。だから全校生徒が集まる生徒総会で、サッカー部顧問に対して「ちょっと何とかしてくれませんか?」と苦言を呈したのだ。

確かに書いていて、やり方はマズかったなと思う。もうちょっと根回しをすべきだし、全校集会という場で晒しあげるようなマネはすべきではなかった。だが、僕が所属していた学校の生徒総会では、「年に1回、困っていることを何でもぶっちゃけようぜ!」という雰囲気があったし、実際に発言した内容で、高校生活の不条理や不合理が改善されたということもあって。だから、僕も発言したのだった。

そのとき、その場にいなかった部活の顧問に、耳が千切れるほど説教されたのだった。高校生にもなって、あんなに大泣きしたのは後にも先にも、このときだけだったのではないだろうか。泣きながらサッカー部の顧問に謝ったけれど、あれから20年経ち、胸中に残るのは、部活顧問に対する恨みだけだ。

謝ったり、反省したりするのは、人から促されるものではない。

「これはダメだよね」と気付きを与えるくらいまでで、それ以降に当人がどう思うかは、当人の感性によるのではないだろうか。

誰かに叱責されて、どれくらい本当の意味で反省したことがあっただろうか。そもそも反省とは、時間がかかるものなのだ。「省みる」という言葉にある通り、省みるために時間が必要なわけで。

全ての叱責に意味がないとはいわないけれど、反省を強要するのはナンセンスだと声を大にして言いたい。

きっと結局のところ、当人次第なのだ。何事も。