考えない。(ふつうエッセイ #676)

「考える」ことは、誰しもできることではない。

それはロジカルシンキングとか、そういった高い能力のことを指しているわけではない。ぼーっとせず、何かを「考える」ということだ。1日の予定を脳内で組み立てることも、「考える」ことのひとつ。しかし最近、こういったふつうに思えるような「考える」ことが、誰しもできるわけではないのではないか?と感じた。

なぜ感じたかというと、他ならぬ僕が、「考える」ことを放棄する時間が増えたような気がするのだ。

例えば電車の中。息子ふたりを連れて実家に戻る。夕刻、それなりに混雑する電車で、息子ふたりは俄然盛り上がっていた。僕は彼らに静かにしろとなだめるでもなく、ふたりのケアをするでもなく、ただただiPhoneをいじっていた。電車に乗るまでの間、なんとか仕事を終えるべく動いていたので、頭はすっかり疲れ切っていたのだ。

あ〜、ふたりとも騒いでいるな。
でもまあ、周囲に致命的な迷惑をかけているわけでもない。
乗客から指摘されても、「子どもですから」で突っぱねれば良いのではないか。

と、割り切り、「考える」ことをまるっきり放棄したのだ。

これは例が悪いかもしれないが、そのような怠惰な習慣は、じわじわと生活全般に侵食している。子どもたちのケアをしなければならないという事情もあり、読書はどうしても細切れにならざるを得ない。「こりゃ、読書は無理だな」とハナから諦め、iPhoneを触っている。何も考えずに。無論、そこには何の生産性もない。

このエッセイは、そんな「考える」ことが不得手になった僕が、何とか言葉を絞り出して書いている。それだけが僕の救いだ。この行為をしなくなったとき、僕はいよいよ考えない人間になってしまうだろう。

文字通り、僕にとって書くことが命綱なのだ。