どこに何があるのか(ふつうエッセイ #367)

「自分」というちっぽけな存在が、いつの間にか、家族や会社など「背負う」ものを持つようになった。

なんだか大袈裟な物言いだが、多くの人が何らかのものを背負っている。ちょっと「重い」表現のように感じられるかもしれないが、小学生がランドセルを背負っているくらいの感覚(まあまあ重いですね)で捉えてもらえれば幸いだ。

高倉健のように、シンプルに生きることが美徳とされていた時代があった。いまでも「高倉健のように」とはいわずとも、ミニマリスト的な生き方を志向する人はそれなりにいる。とにかく「もの」は持ちたくない。四畳半の部屋で、生きる上で最低限の「もの」だけあれば良い。ときめくかどうか、といった表現に形が変わったりもするが、やはり普遍的な価値観のひとつとして機能しているのだろう。

とはいえ、なんだかんだ「もの」は多くなっていく。生活圏がメタバースに移行したとしても(移行したら尚のこと)、「もの」に関する悩みは多くなる。そして、「あれ、〜〜ってどこにあるんだっけ?」という古典的な独り言が発生してしまうというわけだ。

自分の本や衣服、息子のおもちゃ、会社関連の書類や請求書──。挙げればキリがない。仕方ないから買い足すと、信じられないところに眠っていたりする。まったくもって信じられないのだが、それが事実だ。

自慢することでもないのだが、僕の家族はかなり狭い部屋に住んでいる。もともと夫婦でふたり暮らしを始めた場所で、ついつい引っ越しのタイミングを逃したまま家族4人の生活が続いている。

狭い部屋なのだから、「もの」はそれほど置けないはずである。なのに僕はいつも「あれがない、これがない」と慌てふためいている。

どこに何があるのか。

AppleのAir Tagのようなものがブレイクスルーになるかもしれない。「もの」の管理はしやすくはなるけれど、かといって「あれ、〜〜ってどこにあるんだっけ?」はなくなりそうにない。

情報社会で、あるいはメタバースが普通になって、もっともっと「もの」が失われるスピードは増していくはずだ。(失っても良いと思われるほどに)

そう考えると、「どこに何があるのか」という感覚を、しっかり持ち続けていないといけない。使い捨ての生活習慣がデフォルトにならないよう、気を引き締めて「もの」の管理に勤しもうと思う。と駄文を記している間にも、頭の片隅にアレの行方が気になり続けているのだけれど。