私は2004年に一度結婚して、2010年に離婚している。
就職する時には結婚が決まっていたから、まあ早い方だったと思うし、30過ぎでの離婚は同期の中では最速だった。この経験、特に離婚については、私に貴重な発見をもたらした。
最初の結婚の時、私は、自分が諦めなければ愛は続くものだと考えていた。当時は自己啓発本を読み漁っていた時期があって「相手を変えることは困難で、自分を変えることは容易である」的な教えに、なるほどと頷き、相手がどうあろうと、自分さえ諦めず相手に合わせて変わることができれば大丈夫だろうと考えていた。だが実際に、相手との関係に分厚い暗雲が立ち込めた時には、止まない雨はないとばかりに、耐え忍ぼうとした。結婚には「辛抱」が必要とは、祝辞でかけられる3つの呪いのパターンだ。辛抱の他の棒は貧乏と希望だそうで、なんともまあ昭和な感じ。私がその呪いをかけられたかどうかは覚えていないが、とにかく辛抱しようとした。ただ、今から考えても、この心持ちになるのは大変良くない。ひたすらに傷つき続ける割に、状態が良くなることを相手に任せているからだ。「相手を変えることは困難」であるならば「自分を変える」必要があったのに、辛抱しただけでは袋小路に入ってしまう。暗雲が立ち込め、雨が降ってきたのなら、傘をさすべきであり、濡れながら凍えたら風邪をひく。結局私は、いざ自分を変える必要がある事態に直面した時、それを頑なに拒んだと言える。それは自己防衛本能でもあった。自分を変えないでいると、相手といる時間が自己否定になっていく。相手と向き合わず、否定され続ける自分と向き合う羽目になった結果、やがてふと、それまで無かった感覚が訪れる。
「どうでもいい」
当時、自宅から職場までは電車で1時間弱かかっていて、6ヶ月定期を買っていた。ある日、何気に相手から「明日新宿行くんだけど定期借りてもいいんだっけ」と言われた時、率直に「なぜ?」と思った。それまでそんな風に思ったことはなかったので、自分でも驚き、今でも良く覚えている。個人名が入った定期は人に貸せない。なぜこの人はそんなことを私に言ってくるのだろう?夫婦だから?定期の使い回しはキセル乗車と一緒だからできないよと、普通に説明する気も起こらなかった。この相手に対してリスクを背負う必要が、今自分にあるのだろうか。ないと思った。ここで自分のリスクが際立って感じられたのは、同時にその時、相手のことを「どうでもいい」と思っていたからだった。相手に対して、感情の流れが凪いだことを認識した。