木の枝を探して(ふつうエッセイ #341)

子どもは、カブトムシが大好きだ。

なんて一般化してはいけない気もするけれど、少なくとも息子はカブトムシに夢中だ。朝も夜も、近所の公園でカブトムシ探しに励んでいる。

ひとたびカブトムシを捕まえると、当然ながら飼育しなければならない。カブトムシも生命があるわけで、ぞんざいに扱うわけにはいかない。しっかりと土を敷き、新鮮な食べ物を与える。野外で生涯をまっとうできなかった彼らにせめて報いる義務があるのだ。

いろいろ調べていくと、虫かごに枝を入れておくのが良いらしい。カブトムシがひっくり返ったときに、ひょいと掴める枝は便利なのだそうだ。100円ショップの昆虫飼育コーナーにだって、枝だけが売られている。需要があるのだ。

先日、息子のリクエストで枝を探すことになった。カブトムシを捕まえて家に持ってきたは良いものの、手頃な枝は持ち合わせていない。なので枝を拾うために、僕ひとりでサクッと公園に向かったのだ。

しかし、なかなか手頃な枝が見つからない。適当な太さと長さの枝が、目を凝らしても落ちていない。

いや、そんなことはないだろう。息子はいつだって、適当な枝を拾っては楽しそうにぶん回している。探している場所が悪いわけでもないし、タイミング悪く清掃業者が回収したわけでもなさそうだ。

枝を探しながら色々考えていたのだが、端的に「経験」不足なのだろうと気付いた。

色々考えていたのだが、と書いたけれど、おそらく僕は枝を探せていない。探しているけれど、頭の中では別のことを考えている。集中していないのだ。日々「何か面白いものはないかな?」と夢中になって公園を巡っている息子と差がつくのは当然のこと。息子の視線は、目の前の事象しか映っていない。

そんな純粋な気持ちを、僕はいつ失ってしまったのだろう。

片手間で何かを処理できるようになった。常に同時並行で何かを処理するようになっていて(強いられているわけではない)、頭の中に何かが溜まっている状態が続いている。ほいほいと何かをキャッチアップするのが得意になったけれど、たっぷりとひとつのものを吸収するようなスペースが、果たして残っているだろうか。

しみじみと失ったものについて考えていたら(あいかわらず集中していない)、ようやく手頃な木の枝を見つけることができた。ちょっと長いので、足を使って、短くカットする。反則のような気もするけれど、バッグに入れて持ち帰った。

入手した枝には目もくれず、息子はカブトムシに夢中である。