愛があるから生まれることは確かだが、愛とは明らかに違い、わからないので、怖いもの(片山壮平さん #1)

「いい加減にしなさい!」

今日も激昂する声が食卓に響く。
並べられた食事は、前回好評で3人の子どもたちはパクパク食べたアヒポキ丼で、同じレシピで作られたものだ。実際親2人が食べてみても味は同じで、何なら子どもが喜ぶはずの濃いめ。お腹いっぱいなのか(スケジュール上そんなはずはないが)、いただきますの前から3人口々に不平不満が論われ、食事が始まっても一向に口に運ばれず、やがて立ち歩き、しまいにはふざけて盛大にお茶をこぼす様子に、とうとうしびれを切らしてしまった。

「みんなが美味しく食べてくれると思っているのに、作ってくれた人に失礼だとは思わないのか??!」

私が作っても、妻が作っても、食べるときは食べるし食べないときは食べない。傾向はない。好きなものと嫌いなものを混ぜると、まず嫌いなものを見つけて不平を言う、時と言わない時がある。傾向はない。

自分が労せず手に入れたものに対して、きちんと感謝すること。
特にそれが食べ物だった場合に、必ず感謝を声に出して伝えること。

これは、今後うちの子どもたちが生きていく上でかなり優先順位が高く、大切なことだと思っている。仕事がAIに取って代わられるのなんのと騒がれていたのも一昔の感があるが、人と人との合意形成や機微を必要とする調整作業は、やはり取って代わりにくい。どれだけ知識があるかといった専門性の高さよりも、コミュニケーション能力の有無が、生涯で生み出す価値に対して強く影響する時代になった。その環境下で、まず人から好意を持たれること、このアドバンテージは図り知れず、その大本の大本は、やはり「出された食事を美味しく食べる」だ。

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