いろいろとさまざまに、含まれていたもの(ふつうエッセイ #692)

色々あるよね。

色々あるし、様々ある。

でも、色々とか様々とかを使い過ぎてしまうと、色々の中に含まれているものが、徐々にぼんやりしてくる。ぼんやりすると、滲み、何が含まれているのか判別つかなくなる。それは喜びの感情なのか、怒りの感情なのか、はたまた困りごとなのか。

薄まって、最大公約数のような形で理解された物事は、かなりシンプルになる。分かりやすい。スタンスさえ定めておけば、「あっち派」なのか「こっち派」なのか、決めることができる。「こっち派」にいる人たちはいつメンで構成されることが多く、僕も安心して「そうだよね〜」と溜飲を下げていられるのだ。

AIで、ジブリ風とか、ディズニー風とか、はたまたゴッホの絵画のように、というようなイラストを生成することができる。その生成プロセスの中には、「学習」と称されて、様々な知的財産が放り込まれているのだろう。それを面白がっても良いと思うけれど、笑顔の反面、何かが失われ、捨てられているような気がしてならない。

ライティングの仕事をしている。

クライアントからは「より良く見せる」ことを期待され、その期待に応えようと頭を捻る。何なら自分で意訳してしまうことさえある。でも、それで良いのかと自問自答することもある、実際のところ。

村上春樹さんは、「原子力発電所は、核発電所と認識すべきだった」といい、核の脅威にノーを言い続けるべきだと説いている。おっかない言葉を、やわらかく、耳障りの良い言葉に変える。それだけで恐怖は緩和され、懸念のハードルが下がる。その行為自体を常に否定するわけではないが、言葉を使って「ごまかし」に利用してはいけない。

マイナンバーカードは、本当に「私の」カードなのだろうか。そんなふうに健全に疑い、本質を見抜こうとする姿勢を忘れてはいけない。

色々あるよね。色々あるから明言できないよね。

「ごまかし」てばかりの政治家に、きっぱりノーを突きつける。「ノー」を表明するのは勇気が要る。「批判ばかりして」と白い目で見られることもあるけれど、それでも「ごまかし」を許容するわけにはいかない。

とりあえず、「色々」や「様々」に惑わされず、その中身を見つめることから始めてみようじゃないか。