交通事故の雑感(ふつうエッセイ #314)

小学3年生だったときか、交通事故に遭ったことがある。狭い道の反対側に渡ろうと「飛び出し」たのだ。

ただ一応、僕にも言い分はある。なぜなら、一度は止まったからだ。右と左を確認したのだが、右方向に乳製品の移動販売車(トラック)が路上駐車していた。どうしても右側を確認することができず、そのまま渡り、事故に遭ったというわけだ。

幸い、怪我は軽傷だった。

あまりに軽傷だったので、心配して駆けつけてきた部活動の顧問に「サッカーの練習を休むからこうなるんだ」と言われたのを憶えている。サッカーの練習を休むことと、交通事故に遭うのは関係ないはずなのだが、とりあえず「うん」と同意はした気がする。こういった不測の事態になると、人間の発言や行動というのは、極めて本心に近いことがオブラートに包みきれずに溢れてしまうものだ。

警察官も来た。事情を聞かれたときに、僕は車に乗っていたおじさんを必死で擁護した。「おじさんは悪くない、路上駐車していたトラックが悪いんだ」と。だって全然見えなかったんだから……という子どもらしいロジックだが、もちろん警察官には聞き入れてもらえなかった。たぶん最終的に「子どもの不注意による飛び出し事故」として処理されたのだろう。(それ以来おじさんとは会っていないので、おじさんの処遇は不明だ)

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先日、コワーキングスペース近くの路上で、タクシーの追突事故を目撃した。パッとみたところ、車がやや凹んでいる程度の大きな事故ではない様子だった。とはいえ、朝から交通事故を目撃するのは気分が良いものではない。

当たり前だけど、交通事故には、事故を起こした人と、事故を起こされた人がいる。それは加害者と被害者で見なされがち(実際、そういうふうに処理されるべきだとも思う)だが、あの頃の僕のように、「あのおじさんは加害者じゃないんだ」として割り切れない気持ちを抱えることだってあるだろう。

交通事故の数だけ、交通事故の物語はある。

いや、そんなセンチメンタルなことを書きたいわけじゃない。

交通事故によって、人生がめちゃくちゃになった人だって多いわけだから。何が言いたいかというと、その人生を、物語を想像することって大事だよなということだ。

加害者としての交通事故は、ゼロになるに越したことはない。だけどゼロになることはかなり難しいだろう。それでも限りなくゼロにしていくためには、技術の進展に加えて、「事故を起こすべきではない」という気持ちみたいなものが必要ではないだろうか。日常的に運転をする人は「自分は絶対に事故なんて起こすまい」と思っているフシがあるが、そんなことはない、誰でも事故を起こす可能性があるのだよと。

車社会なことは認めるし、後戻りはきっとできない。

だからこそ、車の在り方を考え続けたい。それは社会を考えるということに、きっと繋がっていくのだから。