愛があるから生まれることは確かだが、愛とは明らかに違い、わからないので、怖いもの(片山壮平さん #1)

同じようなことは、他のシーンでも起こる。
例えば、コンセントをいじって遊ぼうとしていれば、危ないからやめなさいという。最初は引き剥がして、ダメ!と語気を強める。一息ついて、少し落ち着いた声で理由を伝える。小さい頃から数知れずそういった手順を踏んでいるはずなのに、兄妹たちが同様に叱られているのを見ているはずなのに、それは未だに繰り返される。繰り返されると、反射的にさらに語気が強くなり、声が大きくなり、使う言葉が強くなる。言っても聞かない時、首根っこを強く押さえてしまう。危ないものを持っているときは、強く引っ張って、乱暴に奪う。

どんどんわからなくなる、躾と虐待の境界線。親権者は「懲戒権」を持つという。その内容は躾とみなされる程度の叱責や軽く叩く程度の行為を指している。一方で学校で長らく行われていた体罰は、令和になって法的に虐待とみなされるようになった。変わりゆく社会の線引きは、至極当然の変化だと思う。子どもは弱者であり、いかなる理由の元でも、暴力は許されない。でも一方で、多くの人が頷くそのとてもきれいな線引きは、私たち親が抱えるこの曖昧模糊とした整理できない感情に向き合ってくれないし、むしろそれは除外される方向だ。
まだ子どもがいなかった時に想像していた、親が子に対して持つ無償の愛的なものは、もちろん日々実感している。一方で、時折本能的に湧き上がる子どもに対するネガティブな感情については、そんな話は聞いていないし、聞いていたとしてもうまく想像できてなかった。

自分は愛をもって叱っているんだろうか。
虐待を行う加害者も被害者も、それを愛情が伴った行為と勘違いすることはよくあるという。だから今の自分の行為に、ポジティブな意味合いの愛があると思ってはいけない。それはわかるのだけど、自分の子どもという存在に対して、後で後悔することになる行為を、反射的に行ってしまうことに、自分で説明がつかない。恐らく子どもたち自身も、これだけ親にだめと言われているのに、繰り返しやってしまうことに説明がつかない。説明を無理やりつければ「これは愛情表現の一種」ということになってしまいそうなので、説明がつかないこと自体を認めなければならない。

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