【きっと両想い】文化人類学(小波季世さん #3)

「われわれのやることなすことすべて」が学問だ

文化人類学とはそもそも何か。

わたしの母校の研究室HPにはこうある。

なぜ、日本人は何でも食べるのに、イスラム教徒は決してブタを食べないのだろう?
なぜ、ベドウィンの男は父の兄弟の娘と結婚すべきだと考えるのに、アメリカ人はイトコとの結婚は避けるべきだと考えるのだろう?なぜ韓国では家系を父系でたどるのに、トロブリアンド諸島では母方でたどるのだろう?世界を見渡すと、こんな不思議な文化の「違い」が沢山あります。なぜ人間はこんなにも違うのか?


よし、行ってみよう、この目で観てみよう。そして、あれこれ比べて考えてみよう。

これが文化人類学です。

東北大学文学部/東北大学大学院文学研究科 文化人類学研究室

だからこそ冒頭に紹介した通り、文化人類学者のフィールドは多岐にわたる。家族・コミュニティ、宗教、儀礼、経済、医療、開発、観光。ヒトが行うことならすべて研究対象なのだから終わりがない。

しかしそのヒトも本当に様々だ。『ようこそ文化人類学へ 異文化をフィールドワークする君たちに』(川口幸大/2017)では、「文化」とは「われわれのやることなすことすべて」とされている。

それでは、「われわれ」とは誰を意味するのだろう?アジア人?日本人?東北人や関西人?あるいは都民?23区民?あるいは自分の親類だけ?突き詰めて言えば、「あなた」だけ?

でも誰か一人がやっていることはきっと「文化」とはみなされない。それは「文化」ではなく「いち個人の活動」として解釈されるだろう。

「われわれのやることなすことすべて」は、所属する集団の中で「こうあるべき」として積み重ねられてきたもの。文化人類学はその「あるべき」を明確にし、「どうしてそうあるのか、あらねばならないのか」を突き詰めていく学問。わたしはそう考えている。

だからこそ文化人類学に集まるのはこんな人だ。

たいていの人は疑問に思わないようなことが気になって仕方ない人たち。あるいは心にふと感じた疑問をずっと打ち消せず探求したい人たち。

いま、世の中のいたるところで多様性が議論されている。多様性を語るには「他者」を知らねばならない。同時に「われわれ」についても知る必要がある。だからこそ冒頭で述べたような本の数々が「おもしろい」と評価されるようになってきたのではないだろうか。

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