待望の再結成(ふつうエッセイ #545)

活動休止や解散したユニットやバンドなどが、時を経て再結成することがある。ファンであれば喜ばしい出来事であるだろうが、そのたびに眉を顰めることがある。

それは、「待望の再結成」という表現だ。

試しにGoogleで「待望の再結成」と検索すると、ABBA、ディジー・ミズ・リジー、東京事変、NUMBER GIRLなどの記事がヒットする。そりゃあ、待望の再結成であることは疑いないけれど、それはニュースサイトやメディアが決めることなのだろうか。

当然、メディアが「待望」することはない。記者個人のレベルであれば「待望」かもしれないけれど、「待望」はファンや読み手を主語にしたとき、初めて成立するものだ。

それに、「待望じゃない再結成」なんて、存在しない。再結成とは、誰もかれもが待望するものなのだ。だとしたら、「待望」という表現を添えるのは、何も言っていないに等しいことだ。悲惨でない戦争など存在しないように。

その言葉は、何を意味するのか。

メディアの影響力がSNSに取って代わられる時代に、そのことを、よくよく考えておきたい。待望というのは、個人が、本当に待ち望んでいるときに使うべき言葉なんだ。勝手に使わないでくれ、と僕は言いたい。