いつか、蛹になれるか。(ふつうエッセイ #648)

4月だったか、5歳の長男がカブトムシの幼虫をもらってきた。

ケースに入れてしばらく育てていたのだが、このたび蛹(さなぎ)になろうとしている。

幼虫がもぞもぞと身体を動かし(昆虫に「身体」とあてるのは正しいのだろうか?)、小部屋のような蛹室を作ろうとしている。成虫のカブトムシを飼育したことはあるが、幼虫から羽化させるのは大人である僕にとっても初めてで。長男ほどではないが、カブトムシの変化を日々楽しみに眺めている。

Wikipediaによると、バッタやセミは、幼虫と成虫で比較的よく似た構造をしているそうだ。なので幼虫から成虫へ羽化する様式のことを不完全変態と呼ぶらしい。

一方でチョウやコガネムシは、幼虫と成虫で全く異なる構造になる。おおむね幼虫のときは、ひたすら餌を食べて身体に栄養を貯め込むのだそうだ。彼らの様式は完全変態と呼ばれている。

完全変態で羽化した成虫は、どんな特徴があるのか。簡単に表すならば、高い運動性を有しているということ。行動範囲が広くなることで、異性と出会いやすくなる。昆虫が異性と出会えば、必然、交尾をする。つまり彼らが成虫になるのは、「子孫を残すため」であり、成虫という様式は、子孫を残すのに都合が良い様式なのだ。

なるほど、幼虫のときに貯めた力を、成虫のときに子孫を残す目的で発揮する。かっこいい言い方をすれば「後世のため」ということになるだろうか。交尾を「後世のために」というのは、人間社会では何とも一面的な見方のように思えるけれど、昆虫の生存率はかなり低いわけだから、絶滅の危機を避けるためにもそういった表現は許容されるべきだろう。誰かが生き抜かなければ、その種は全滅してしまう。アリもひとつの生命でなく、集団の生命を優先する。昆虫と人間との共通点や違いを考えたり、想像したりすることは、なかなか面白い。

蛹とは、昆虫独自の営みだ。

人間はもちろん、哺乳類全体に蛹という概念は存在しない。でもあえてメタファーとして、人間に「幼虫期」「蛹期」「成虫期」なんて名付けてみて、どういったタイミングでそれらが訪れるのか考えてみると、ある種の思考ゲームになる。

昔は高校生までが幼虫期。ひたすら知識を詰め込み、大学生で羽根を伸ばし(いわば蛹になって)、成虫としての大人になる。大人になれば息子や娘も生まれるだろう。労働で稼ぎ、子孫を残す。昆虫との共通点も多い。

今はどうだろう。大人になっても結婚や出産を選ばない人が増えている。リスキリングが推奨され、蛹とみなされていた大学や大学院に通い直す人も珍しくなくなってきた。

Mr.Childrenの桜井和寿さんは「蘇生」という曲の中で、「でも何度でも何度でも 僕は生まれ変わって行く」という歌詞を歌っている。社会の理不尽さや現実の壁を直面するたびに、無力さを感じることもあるだろう。そのたびに過去見ていた夢を塗り潰して、何度も何度も生まれ変わろうと歌うのだ。

無理やり蛹のメタファーを転用するのであれば、現在は、何度も何度も蛹になるチャンスがあるのではないだろうか。あるいは、蛹になっていく必要があるのではないだろうか。

飛び方も変われば、飛ぶ場所も変わる。そのたび新しい交尾に繋がるというのは分別が足りないような気がするが、交尾ならぬ、後世のためのアウトプットを残していけば良い。できることは山ほどある。チャンスもある。蛹になって、力を解き放とう。