公の場(ふつうエッセイ #446)

よく芸能人やタレントを扱うニュースで、「公の場」という表現が出てくる。芸能人が結婚発表後、初の公の場で結婚について話しました、というように。

当人が結婚をどのように捉えているのか、直接聞いてみたいというファンのニーズは当然存在する。そこで暗躍してきたのが「公の場」である。

例えば「公の場」は、映画の舞台挨拶などが主流だ。本人が顔を出して映画に関するコメントを喋るのだけど、司会者に結婚のことを振られれば、話をせざるを得ない。翌日のニュースは、映画のことなんて全然報じられず、「誰々が結婚発表後、初めて公の場で笑顔を見せた」なんてことになる。

映画関係者の渋い顔が目に浮かぶ。だが、それがファンのニーズならば仕方がない。ファンのニーズに忠実であるべきだと僕も思う。

ただ問題は、本当に需要があるのかということ。未だに「公の場」で言質をとることがニュースバリューに繋がるのかということ。

時代は急速に変化し、「公衆の面前に立たされた」という意味では、SNSが「公の場」の機能を代替するようになった。SNSのことを「公の場」とは言わないけれど、もはや「公の場」とされてきたもの「だけ」が、「公の場」とも限らないのではないだろうか。

SNSが「公の場」の一種だとして、僕たち一般人もSNSを通じて「公の場」に立てるようになった。Twitterのようなテキストだけでなく、InstagramやYouTube、TikTokのようなリッチメディアによって、ほとんど編集されていない素顔が露わになっている。(まあ、ある程度編集もされているけれど)

あらゆるものが「公の場」となったときに、「公の場」の価値は下がる。

既存の「公の場」が、それでもバリューを維持したいならば、その表現から見直すべきだろう。そもそも忖度なしで、相手に向き合っているのか。そんな原点から、改めた方が良いかもしれない。