アンフォロー(ふつうエッセイ #13)

SNSが主流になって「同じこと」「同質性」が可視化されてきたように思う。

もちろん相手が「同じような人間である」ということは友達になる上でのきっかけになる。逆に言うと、あくまできっかけに過ぎない。

友達として長い時間を過ごしていくと、「あれ、ここは違うな」「こいつ、こんなこと考えたんだ」と気付いてくる。若気の至りで仲違いすることもあるけれど、「違うこと」「相違性」を認めた上で、より仲が深まっていく。

SNS全盛期とは言え、友人関係とは、今もそのように磨かれているはずだ。SNSで発露される情報など、対面で向き合える際に得られるものに比べると本当に僅かしかない。

だけどSNS限定のコミュニケーションでは、「ちょっとでも考えが違うな」ということがアンフォローやミュート、ブロックに繋がってしまう。それはとても悲しく、もったいないことだ。

なぜそれがもったいないか、というと、それこそあなたが子どもだった頃に、友達とどういう関係を築いてきたかに立ち返ってみれば良い。忖度なく、何でも言い合える関係だった頃の、豊かな人間関係。それは何にも代え難いものだったのではないだろうか。

しかしながら残念なことに、全く相手に理解されなかった経験をお持ちの方もいるだろう。その経験がトラウマになって、「違うこと」「相違性」を極端に敬遠している方もおられるだろう。二度と友達を失いたくない、という強い想いを持っていたとしたら「違うこと」「相違性」などは最も忌避すべき要素だ。それに対して、僕は慰めの言葉を持たない。

ただ思うのだけど、人間は「同じこと」「同質性」から、真の意味で学びを得られるのだろうか。

会社でも当たり前のように「価値観採用」なんて言葉があるけれど、価値観が異なる人間を注意深く排除するような会社に、世の中に受け入れられるようなサービスやプロダクトを作ることができるのだろうか。

万人に愛されるなんて不可能だ。よほど好感度が高いタレントでも、好意を寄せない人間が存在する。

いずれにせよ「同じこと」「違うこと」がそれぞれもたらす効用については、注意深く見極めてもらいたい。どちらかを過度に信頼し過ぎることで失った可能性は見えづらく、実感しづらいものだけれど。