怖いの後遺症(ふつうエッセイ #287)

怖いという感情について、僕は「ときには必要ではないか」という考え方を持っていた。

2020年当初、得体の知れないウィルスが登場したときに、誰もがそれらをどのように扱うべきか躊躇していた。国や地方自治体のリーダーが選んだのは「怖い」と思わせることだった。「不要不急の外出・移動の自粛」という、およそ日本語の意味が通じないような新語を作り出し、人々の「怖い」という感情に拍車をかけた。

そして、その効果は絶大で。ロックダウンという手法をとれない社会において、人々の行動変容に成功した。

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それから2年経った。

さすがに現状に慣れ、また感染者数も減ったことにより、少しずつ外出や移動も増えてきている。

だが、「怖い」の後遺症は、ことのほか厄介のようで。

例えば「マスク」は取り外すべきものでないような対象になっている。(誤解を招くようなので補足しますが、僕は、人混みなどではマスクは欠かせないと考えています。少なくとも現時点では)

感染者数がたとえゼロに近くなったとしても、マスクはしばらく欠かせないだろう。「もうマスクしなくても良いよ」と言われたとしても、「いやいや、まだ安心できないから」という理由で着脱に至らない。まさに「怖い」の後遺症だ。

「怖い」は差別や偏見に繋がるから厄介だ。対象が人でなくとも、それに関わる人に対して、極端にネガティブな印象を与えてしまう。(コロナ禍においても、当初は罹患した人や業界へのバッシングが止むことがなかった)

子どもは、たいていお化けが怖い。

なんで怖いのか聞いても、ちゃんとした回答は却ってこない。ひとたび怖くなれば、その怖さを拭うことは困難になる。冷静な判断を不可能にしてしまう、それが「怖い」の怖さだ。

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SNSで、本当に汚い言葉で誹謗中傷が飛び交っている。

加害者を擁護するわけではないが、彼らは何かに怯えているのだと僕は思っている。自分の何かが奪われてしまうかもしれない。その「怖い」を根本から払拭するのでなく、目の前の攻撃対象に「怖い」の気持ちを転嫁させてしまう。それは、傍から見ていてとても痛々しい。

僕だって、怖いことは山ほどある。

その「怖い」を乗り越えていくためには、自分自身の努力だけでは足りないだろう。他人と、社会と向き合っていく覚悟が必要だ。

その覚悟を持つのは容易ではない。そんな向き合い方をしたことはないからだ。

それこそ、怖いなんてもんじゃない。自分を塗り替えるように更新しなければならない。痛みも伴うだろう。

なんとか、耐え抜いていきたい。