時間を置く(ふつうエッセイ #447)

ケースバイケースなことを承知で書くけれど、即断が正しいとは限らない。

迂闊なことを言わない。考えたことをそのまま口にしてはいけない。そんな経験則が、年々重みを増している。

世の中の成功者の多くは、即断即決を「良し」としてきた。決断が遅い人間を「検討使」と揶揄する時代だ。検討に時間をかけ、妥当な判断を導こうというプロセスは、時間の無駄だと見做される。

「検討使」は「健闘使」に、ならない。

もちろん検討ばかりして、なかなか実行に移されないのは批判の対象にあがる。トライアンドエラーが許される土壌がなければ、即断即決のインセンティブはない。社会の側も変わる必要がある……といった問題提起は本稿の趣旨ではないので、いったん割愛する。

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20代の頃、常に何かを発言していないといけない気がした。

僕自身の存在意義を示すために、「話す」ことを常に意識していた。それは会議であっても、飲み会であっても。結果として、他人の話に割り込んだり、センシティブな話題における失言を犯したりと、幾度となく不興を買ってきた。

「あ……」と後悔したことは、一度や二度ではない。

それでも、時間を置くこと、置かないことの「正しさ」は認定しづらい。株価のように、何かの施策によって分かりやすく上下するような物差しは存在しない。

時間を置かずに即断して、短期的に損を被ったとしても、長期的にリカバリーできて良かったねという着地になることもあって。その逆もまた然りで、時間を置いたことでリスクは免れたけれど、何もしなかったことで経験値を積めなかったというようなこともある。その「あったかもしれない」未来のことは、当然ながら、誰も知ることができない。

でも……

一晩置いたカレーは、味が染み込んで美味しいじゃないか。(それは間違いないよね)

だったら、一晩くらい、思考を寝かせても良い気がするのだ。美味しさが倍になるわけではない。0.01%くらいかもしれない。

僅かな違いかもしれないけれど、そこに意義を見出したい。僕が求めるのは、ささやかな余裕や余白なのかもしれない。