25キロの渋滞(ふつうエッセイ #343)

先日高速バスに乗った。

乗車する際、車掌から「今日はかなり混雑しているみたいで……」と告げられる。聞けば首都高近郊で25キロの渋滞があり、予定到着時刻より1時間半も遅れるという。

かといって、いまから特急に乗るという選択肢は現実的ではない。幸いなことに少し早い時間帯のバスを選択していたので「大丈夫ですよ」と告げた。どうなることやら……と思っていたが、バスが首都高に入った途端に、車が長い列をなしていた。

並ぶことが嫌いだ。行列のできる店はなるべく避けてきた。最近は待ち時間にスマホを観ることもできるけれど、そういう問題ではない。「待つ」という行為そのものが宿命的に孕んでいる「この時間は無駄である」という感覚に耐えられないのだ。

たぶん、僕の父もそうだったと思う。僕と同じくらいの年齢だったときは、渋滞らしきものを見つけると脇道に入り、ちょこちょこと車を走らせていた。(この習慣は年齢に応じて、いつの間にか消滅した)

そんなこんなで「待つ」を強いられた僕だが、実は、ある程度の混雑は予め予測していた。バスの中で観るための映画を何本かダウンロードしていたので、それらをのんびりと眺めていた。結果的に1時間の遅れで現地に到着したけれど、「この時間は無駄だった」という感覚は一切なかった。

考えるに、「無駄だった」よりも「映画を観れて良かった」という感覚が勝ったのだと思う。そして行列に並んでも苦でない人たちは、同じような感覚を有していたのではないだろうか。

行列に並ぶのは、時間の無駄ではある。

だが無駄に勝る行動が伴えば、無駄な時間はむしろ「必要」なものになる。

・ダウンロードした映画やテレビドラマを観る
・溜まったメールに対して返信する時間に充てる
・友達やパートナーと気兼ねない会話を楽しむ
・さくっとnoteやブログを更新する

もちろん「ああ、無駄な時間だな。でも美味しいラーメンを食べたいから我慢するか」というタイプもいるだろう。何よりラーメンを食べたい人で、その価値観は否定しない。(というか、むしろ羨ましく感じる)

もしかしたら、25キロの渋滞もそんな感じで生まれているのかもしれない。無駄だなあとイライラしているドライバーよりも、「まあ渋滞だけど、その間に色々考えないといけないことを考えるべ」というような感じで、案外、有益な時間にしようというドライバーも多いのではないか。

ちょっと無茶なまとめ方かもしれないけれど、「この時間は無駄だった」な状態のときに、無駄に勝る何かを持ち合わせていることは、強みだと思う。色々なことを消化しながら、前に進める肯定感を大事にしたい。