いらない(ふつうエッセイ #642)

「いらない」
「必要ない」

そんな言葉を日常的に使う人を、警戒している。

それは不用品といわれるような「もの」を指すこともあれば、会社でなかなか生産性を上げられない「ひと」を指すこともある。あるいは組織とか。旧態依然とした企業や組織など、平然となくなって然るべしという意見を述べる人もいる。

それは「つまらない」などの評価を表す言葉と全く異なる意味を持つ。いうなれば、存在の否定だ。

もちろん僕だって、日々の生活において不用品を処分することはある。使えなくなったものだけでなく、使わなくなったものを捨てることもある。1弦が切れっぱなしのアコースティックギターも、そろそろ処分対象になるのではと震えている。

「いらない」
「必要ない」

その言葉を使う言葉の裏に、「いらない」「必要ない」に怯える自己がいるのではないか。おれも、いつか「いらない」存在になるのではないか。

就職や転職の際、「市場価値」という言葉が当たり前のように使われている。いつからだろうか。本当に嫌な言葉だなと思う。価値が低い人間は、「いらない」とでも言いたいのだろうか。

もちろん、市場価値を高めようとしている人を否定はしない。でも、市場価値なんてのは、誰にとって都合が良い尺度なのだろうか。

ここに、陶器を作ることに長けているが、PC操作ができない陶器職人がいるとしよう。仮に世の中において、陶器が全く売れなくなったとき、その陶器職人の市場価値はゼロになるのだろうか。自分の能力やスキルを、「お金」に換えることができなくなることが、そんなに厳しいことなんだろうか。

「いらない」
「必要ない」

でも、そんなふうに糾弾された「もの」や「ひと」の裏側には、彼らに守られる形で頑張っている人だっているはずだ。勝った負けたの人生ゲームに、僕はどんな価値も見出すことはできない。と同時に、僕が将来成功を収めたとしても、そんな人生ゲームを称賛するような人間にはならないと強く、強く誓う。