迷子に憧れていた(ふつうエッセイ #20)

子どもの頃、僕は迷子に憧れていた。

親にも店にも迷惑な話だが、3階建てのデパートで、所狭しと弟と一緒に駆け回っているのが常だった。「玩具がほしい!」という欲もなく。冒険のような感覚で、デパートを秘境だと見立てていたのかもしれない。

一度だけ、弟が迷子になったことがあった。

気付けば弟がそばにいない。母親が戻ってきて「あれ?」となった。呼び掛けても弟は出てこない。困っていたときに店内アナウンスで迷子のお知らせが告げられた。弟がどこどこ室で、ひとりで待っているらしい。

僕は衝撃だった。

弟の名前が、大々的に告げられている。

ちなみに弟は、全く泣くこともなく、何が起こっているのか分からないという表情で待っていた。

* * *

そしてしばらくした頃。

いつものように店内を駆け回っていた。すると気が付けば親も弟もいない。まあ考えてみれば普通のことだったけれど、千載一遇のチャンスだと思い込んだ。よくよく探すこともせず、近くの店員さんに声を掛けて、迷子である旨を告げた。

店員さんは首尾よく僕をどちらかに連れて行き、年配の女性に受け渡した。そして僕の名前が、デパート中に流れていった。すごい。

すぐに母が来た。だけど母は、僕が迷子になんかなっていないことを見抜いていたと思う。それについて何も言うことはなかったけれど、何となく気配で分かった。

* * *

迷子への憧れは、一瞬で消えてしまう。

なんと翌日、友達から「デパートで迷子になっていたでしょう?」と聞かれたからだ。顔から火が出るような恥ずかしさだった。そのとき初めて、迷子になることは不名誉なことだと気付いた。(誰も進んで迷子になることはしないし、少なくとも僕の行動は全く褒められたものではなかったわけだ)

迷子に憧れていたあのとき、僕は何を求めていたんだろう。寂しかったんだろうか。

気のせいか、ここ数年、迷子のアナウンスを聞いていない気がする。

子どもはお行儀が良くなって、親は子どもから目を離さないようにしている。迷子になる必然はないし、迷子とは事故性、事件性に繋がる「避けるべき」ものとして認識されている。

僕のように、迷子になりたい人など皆無だろう。それで良いと思う。だけどせめて、子どもに対して何らかの「秘境」は提供してほしいと思うのだ。