けんすい(ふつうエッセイ #643)

最近、懸垂ができなくなりつつある。

振り返ってみると、懸垂への思いは熱く苦々しい。

中学生のとき、僕は懸垂ができないことを恥ずかしく感じていた。同級生と同じ時期に身長は伸びていったが、腕っぷしは追いつかず、非力だった。体格と力量のバランスが取れた友人は、ひょいひょいと懸垂ができている。羨ましくて仕方がなかった。(最終的に、僕も何回かはできるようにはなったが)

高校に進学し、ラグビー部に入学してから、ようやく僕は懸垂ができるようになった。体重と力加減が一致してきたのだろう。確か、最高記録は30回だ。なかなか自慢して良い記録だろう。力自慢のラグビー部員の中でも、かなり多い方だった。ラグビー部の中では依然として非力だったが、体重によっては懸垂が不得手になるケースもある。

堀って、意外に懸垂できるじゃん。

自他ともに、誇れる記録だったのだ。

でも今は、せいぜい10回が限界だ。あのときが一番鍛えていたから、そりゃ当然かもしれない。なので最近は、息子と近くの公園に立ち寄った際は、短い回数でも懸垂するようにしている。ささやかながら、トレーニングの再開である。

鉄棒にぶら下がる前、「ああ、おれはこれから懸垂をするんだ」と気合を入れなければならない。やれば、懸垂をするしかないのに、なぜか必要以上に力を入れようとしている。そのこと自体、僕から機動力を奪っているのだ。

何も考えず、鉄棒にぶら下がれていた時代。あのときと今は、何が違うのだろうか。

せいぜい10回だとしても、懸垂は懸垂だ。同年代には、もはや懸垂ができなくなった人もいる。必要以上に気負う必要はないのだ。逃げようとしなくて良い。そのまま、1、2、3。それくらいの意気で、懸垂に臨もうではないか。