外に声が聞こえてしまう(ふつうエッセイ #189)

自宅での会話が、思いがけず外に漏れていることがある。

窓が開いていたり、玄関付近にいた人に聞こえたり。「〜〜なこと言ってたよね」なんて指摘されると、顔から火が出るほど恥ずかしい思いをする。誰しも、そんな経験があるのではないだろうか。

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そもそもなぜ、あれほど「恥ずかしい」と感じるのだろうか。

男女が親密な関係でいるときの「音」が外に漏れるのは絶対嫌だ。それはもちろん理解できる。

だけど、だいたい「恥ずかしい」と感じるのは、日常会話のあれこれだ。別に秘密な話をしているわけではなく、例えば「早くご飯食べなさい!」とか、そういった瑣末な話であることが多い。

ひとつは、外に見せている自分と、内にいる自分との間で、差異があるからだろう。外では「優しいお父さん」とされているのが、家の中ではガミガミと口うるさいキャラクターになっている。それを知られてしまったようで「恥ずかしい」ということだ。

だからといって、外と内でキャラクターを同一にすることは難しい。難しいだけでなく、同一にする必要もあるわけではない。平野啓一郎さんが「分人」という言葉を広めたが、あらゆる場所に応じてそれぞれのキャラクターがあるというのはごく自然なことだし、同一でしかキャラ立ちできないとしたらそれはそれでシンドイ思いをするだろう。

外に声が聞こえてしまうというのは、当人が無意識で設定していた領域を跨ぐ / 跨がれるということなのかなと思う。そこに恥ずかしさが生まれたり、時には悲しみや怒りの感情が湧いたりということもあると僕は思う。

生きやすさと、生きづらさ。

その両方を通じて、人間はしぶとく生存しているのかもしれない。