べつに怒ってない(ふつうエッセイ #359)

武田砂鉄さんの新刊タイトルを勝手に拝借してしまったが、僕は「べつに怒っていない」のである。

たしかに機嫌が悪くなることはある。疲れているときもあるし、仕事でいや〜〜なこともある。その都度、ペロッと舌を出して「あちゃー」と笑えるような余裕があれば良いのだけど、そうでないときだってあるのだ。

そういうとき、なるべく顔に出さないようにするのだが、妻や息子たちからすると「怒ってるね」となってしまう。重ねて言おう、べつに怒ってないのだ。厳密にいえば「怒り」という感情に至りそうではある。憤りや苛立ちが募り、間もなく噴火してしまう。怒りに身を任せればどうなるか、それはもう誰にとっても不幸な事態しか生まない。だから、ジッと堪えているのだ。怒りが到来しないように、憤りや苛立ちが通過するのを待っているのである。最近よく聞く表現を使うとすれば「ご機嫌になる」ための努力をしているわけだ。

ただコミュニケーションとは、双方の感情によって成立するものだから、相手が「怒っている」と思えば、怒っているということになる。「べつに怒ってない」と言っても、そんなのは強弁だと思われるのがオチだ。

僕だって、20代のころ、猛烈に恐怖心を抱いていた上司がいた。常に不機嫌そうな顔つきをしていて、話し掛けるのが怖かった。怒っていると思ったのだ。(結局話し掛けられずに、仕事の相談・報告が遅れて、逆に叱られるというケースが頻発した)

それだってもちろん僕が悪いかもしれないけれど、あからさまに不満げな顔をしていた上司だって悪かったはずだ。その会社を辞めたいまだからこそいえるが、ほんと“たいがい”にしてほしい。

ということで「べつに怒ってない」というのを、言葉通りに使うと、たいていのことは“たいがい”にしてほしいと思われるので注意が必要だ。実は怒っているんだけど、「べつに怒ってない」ということで冷静さを保つというポーズを取る上では有効ではあるけれど、そんなコミュニケーション上級者のような振る舞いが誰でもできるわけがない。だからほとほどに自制しつつ、“たいがい”にしてほしいと思われないよう、謙虚に振る舞うことを心掛けたい。