来るべき2億円のために(今井峻介さん #2)

選べない恋、選べる結婚。では愛は?

このことについて考えるための補助線として、竹内整一『「おのずから」と「みずから」──日本思想の基層』から一部を引用しよう。

日本語では、「おのずから」と「みずから」とは、ともに「自ら」である。そこには、「おのずから」成ったことと、「みずから」為したことが別事ではない、という理解が働いている。

竹内整一『「おのずから」と「みずから」──日本思想の基層』

「出来る」という言葉にも同様の事情を伺うことができる。「出来る」とは、もともと「出で来る」という意味であり、物事が実現するのは、「みずから」の主体的な努力や作為のみならず、「おのずから」の結果や成果が成立・出現において実現するのだという受け止め方があったがゆえに、「出で来る」という言葉が「出来る」という可能の意味を持つようになったのである。「れる」「られる」という助動詞が、自発とともに受身・可能の意味をもっているというところにも同じことを指摘できるだろう。

竹内整一『「おのずから」と「みずから」──日本思想の基層』

「愛している」という言葉を使うときに感じる、羞恥とは別の抵抗感は何なんだろうとずっと思っていた。僕はここに一つの答えがあるように思う。

自然とそうなったともとらえられるし、自分が望んでそうしたことともとらえることができる。選んでいるとも言えるし、選んでいないとも言える。

ここでいう「おのずから(自然)」と「みずから(自分)」のあわいにあるのが愛なのではないだろうか。

「愛しています」ではなく「愛することになりました」という言葉の方がより正確に気持ちを表現している。この選んだような、選んでいないようなあわいの言葉は、選ぶことを求める人にとっては無責任で、意思のない、投げやりな言葉に聞こえるだろう。

しかし、選べない恋ほど衝動的ではなく、選べる結婚ほど打算的ではない、そのあわいにある愛が、恋でも結婚でも生み出せない意味を人生に与えているのは確かだ。それが何なのか、僕にはまだ言語化できていないけれど、でも、確かにある。

選べない恋、選べる結婚、そして、することになる愛。

「最愛の人と結婚する」という事象が起こる可能性が低いと先に述べたのは、愛と結婚は関係がないということだけではなく、愛はそもそも選ぶもの、測れるものとして取り扱うことができないからだ。

愛は選べない。その人を「最愛」と決めることはできない。今、確かに愛している。実際に最愛かもしれない。でも、わからない。将来もどうなるかわからない。変わるかもしれない。変わらないかもしれない。別の人を愛することになるのかもしれない。いろいろな愛し方があるのかもしれない。それらはすべて選べるようで選べない。

なんとも歯切れが悪い。しかし、この曖昧さが愛の本質だ。だから、愛は手に入らない。2億円でも買えない。そもそも手に入れるものではなく、気づいたら手の中にあるものなのだ。

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