無防備な声(ふつうエッセイ #585)

決して大きな声で話しているわけじゃない。

なのに電車やカフェで、彼らの声は空気を伝わって、僕の耳に届いてしまう。「届いてしまう」と書いているのは、「あんまり聞きたい話」じゃないからだ。

先日、耳に届いてしまったのは、大学生ふたり組の声。

どうやら就職活動に臨んでいるらしい。自己分析の結果、「〜〜という企業を受けようと思っている」といった類の話である。元人事としては興味深いテーマではあるのだけど、どうも耳障りだった。

時々、大学生の就職活動の相談に乗ることがある。その一つひとつに耳を傾けるのは、個人的には非常に興味深い。少しでも役に立てるのであれば、真摯に応えたいと思っているほどだ。

なのに、彼らの声は雑音にしか聞こえなかった。なぜか。

思い至ったのは、彼らの声が非常に無防備だったということ。社会人になっていない彼らは、まあまあ勝手な思い込みによって、「俺はこういう企業に向いている」と語っていた。友人ふたりの自由な雑談だ、別に構わないし、むしろそうやって自分たちの就職活動を磨き合ってくれれば良い。でも、彼らの会話は、何だか虚空に向かって喋っているような感覚だった。彼らは感染対策を気にしてか、向かい合って座っていない。テーブルに隣り合わせで座っており、彼らの声はただ店内に放たれている。

不思議な対話だなあと思う。「お前、その考えは甘くない?」みたいな批評性は皆無。ただただ、お互いが好きなことを喋っている。

そんなもんだろうか?と思う。

ひとりの彼は「ベンチャー企業に就職しようと思っていたけれど、面接で『君は上場している大手企業の方が向いているんじゃない?』と言われた」そうだ。その話を受けて、受ける企業の幅を広くしていると語っていた。

「へえ、そうなんだ」と彼の友人は言っていたけれど、どこに「へえ」の要素があったんだろう。

全文を盗み聞きしていたわけじゃないけど(途中で我慢できなくなって、イヤホンをした)、彼らの声は、それでも僕の耳に届いてくる。

シンプルに、彼らの声って、どんどん大きくなっていたのかもしれない。パスタを食べ終わって、今度は喋ることに集中し始めたからだ。

iPhoneの音量を上げる。さすがに、これで彼らの声は届かなくなった。

楽しそうに笑っている。ああ、でも、僕もああいう大学生だったかもしれないな。「就職活動なんて苦戦するはずがない」って、大学4年の春のときは思っていたっけ?(結局、僕の就職先が決まったのは10月過ぎてからだった)

無防備な声は、大人になるにつれて徐々に鳴りを潜め、警戒心が強くなっていく。かろうじて僕は、こうして発信を続けられているけれど、一般的にはどうなのか。

大人とは「音無(おとな)」ということなのか。まさかね。

無防備だって、悪くない。警戒心が強くなるのも、悪くない。

悪くないけれど、それでも僕は「良い」を突き詰めたい。そう考えるのは、贅沢の極みなのだろうか。