私の父はパン職人だ。
娘である私が彼を分析すると、あまり人と深く関わることが得意ではないように見える。人と関わりたくないというわけではなく、少し臆病で、直接人に何か働きかけをしたいというよりは、少し離れたところから、みんなが楽しそうにしているのを眺めていたいような、そんな父だった気がする。
先日のお葬式の光景を見て以来、彼が還暦を迎えても毎日パンを作り続けているのは、直接人に愛を伝えたり親切にすることが少し苦手な代わりに、彼なりに人を愛する方法をパン作りに見出しているからなのではないかなぁと思うようになった。
私は彼が人に対して優しいと思ったことはあまりないのだけど笑、彼が作るパンは優しくて楽しい。
どれも食べる前にニンマリしてしまうような、なんと言うか、幸せにとても忠実なパンたちが多い。
まず第一に、とっても美味しい。何がどう美味しいかは分からないのだけど、基本的に全部美味しい。
毎日でも食べたくなるようなご飯のようなシンプルなパンもあれば、直径30センチくらいある大きくてふわふわなメロンパン、季節や行事があればそれに合わせた具材やデコレーションがされたワクワクするようなパンなど、とにかく色んなパンがある。
そしてどのパンも技術がすごいと思われたいとか、儲けたいとかそういうことよりも、「このパンを味わってくれたら、その人は幸せなんじゃないかな」と、まだ見ぬお客さんやそれを頬張る大切なひとを思い浮かべて作ったかのような親しみやすさがある。
父は、自分にできる精一杯を、パンにこめて、作りきる。
そしてあわよくばそれが、他の人の手に渡って、その人を幸せにする手伝いができる。
別に自分が作ったということを知ってほしい訳ではなく、直接の見返りが欲しいわけでもなく、自分にしかできない、パンの形をした愛を、美味しいねって食べて笑ってくれる人がいることが嬉しいんじゃないかなぁ。
何も語らないパンからそんなことを思えるのは、娘だからなのかもしれないけれど、彼は直接人に自分の愛を届ける代わりに、パンを介して、愛したい人たちにそれが伝わることを願っているのではと思うのだ。
回りくどいような気もするけれど、自分らしさを全うして他の人のことを幸せにしたいと願うのは、その人の命を全うしようとしているようにも感じるし、それと同時にその愛を受け取るのも味わうのも受け手の主体性に任せているという謙虚さが美しいと感じる。
私の父は、もしかしたら祖母に対し世間一般の親孝行はし足りないままお別れする日を迎えてしまったかもしれない。けれど、彼はその間、彼の命を全うして美味しいパンを作り続け、色んな人を笑顔にしてきた。そしてきっと、パン作りを続けてきた時間の向こう側には、お母さんである祖母の顔もきっと浮かべていたのではないかなぁと思うのだ。