便宜上のパーセンテージ(ふつうエッセイ #519)

世の中の物事をすべて数値で換算するのはナンセンスだけど、いったん便宜上、知識というものを0〜100%の間で並べられるとしたい。

全く何も知らない状態を、「0%」としよう。

その状態から、本を読んだり、映画を観たり、実際に店舗を訪ねたりして少し知識を得て、だいたい「1%」になったとする。

知識が「100%」という人からすれば、「0%」と「1%」というのはさして変わらないかもしれない。あるいは、知識が全くない人からしても、「全然おれと変わらないじゃないか」と感じるかもしれない。

だが僕は断言したいのだけど、「0%」と「1%」は全然違うはずだ。

同じように「1%」が「2%」になったとする。

これもまた、「1%」と「2%」とでは、雲泥の差が生じていると僕は断言したい。たかが「1%」の違いだけど、そこには埋め難い差が生まれている。「1%だけでも、知ってるだけマシだよね」という人に、「2%」の価値は絶対に分かり得ない。「2%」の価値を信じている人にこそ、「2%」への道のりは拓けるのだ。

自己評価として、「いまおれは、80%くらいの知識がある」と思っている人の評価は、たぶん正しくない。知識の「識」には、物事を見分ける / 識別するなどの意味が込められている。つまり知っているだけではダメで、そこから何らかの能動的なアクションというか、感覚というか、働きかけが常に必要になってくる。研鑽を積んでいないといけない。

仮に、本当に「80%」の知識があったとして、それを保とうと努力していない限り、「79.9%、79.8%、79.7%……」とどんどん知識はすり減っていく。

僕も、過去の遺産で飯を食っていることがある。そのときは全力だったし、プロを自覚していたけれど、気を付けないと「それって古い情報だよね」となりかねない。

高い水準を常に目指していたい。「1%」でも積み上げられるように努めたい。

それがたとえ、便宜上のパーセンテージだったとしても。