わたしの故郷、東京(松金里佳さん #1)

1日の終わりを見失うほど慌ただしい日もあれば、
余白だらけの予定表にそわそわして1日が終わったり。

日記の筆が止まらなくなるような体験をする日もあれば、
iPhoneが知らせてくれる1日のタイムレポートにギョっとしたり。

そんな毎日を行ったり来たり過ごしています、松金と申します。

1995年生まれの東京育ち。
お仕事は広告代理店でプランナーをしています。

まだまだぺーぺーなわたしにびっくりなお願いをいただきました。
はじめてのエッセイです。

言葉は「感情の近似値」にしかすぎない

「愛を語ってくれませんか?」
大きなテーマをいただき、
人生で起きた出来事を思い返すと、
豊かさや厳しさを知るさまざまな経験に恵まれたことに改めて気付かされます。
しかし、いま選びうる言葉で、
日々受け取っている「愛」を規定してしまうのは時期尚早な気がしてしまう26歳です。

SUPERCARのメンバーで作詞とギターを担当されてきたいしわたり淳治さんは、
著書『言葉にできない想いは本当にあるのか』にて、言葉は「感情の近似値」にしかすぎないと言います。
「私たちの口から出る言葉はいつだって、感情よりも過剰だったり、不足していたりする」
とても鋭い指摘だと思います。
できるだけ精度の高い「近似値」を選択できるよう、
わたしはその道を模索中です。

では、何を頼りに書けばいいのだろう。
悩んだのち、この機会を、
映画や音楽といったカルチャーを糸口に、
「愛」というものについて考えてみる時間にしたいと思いました。
今回はその経緯について、わたしが生まれ育った「東京」を糸口に綴らせていただけたら幸いです。

「東京」は“ふるさと”からいちばん遠いところにある

わたしの名前には「里」という字があります。
「生きていく環境が“ふるさと”のように美しく温かい場所でありますように」
両親のそんな思いが込められた名前です。
しかし、渋谷まで2駅の場所に26年間暮らしてきたわたしには、ここにひとつの問いがありました。

「東京生まれ東京育ちに“ふるさと”はあるのだろうか」

童謡『ふるさと』には、
「こころざしをはたして いつの日にか帰らん 山はあおき故郷 水は清き故郷」という歌詞があります。
Googleで「ふるさと」と画像検索をしてみると、
そこには深く呼吸をしたくなるような壮大な風景が並びます。
それらが示すのは「東京」とは似ても似つかない、山や川に囲まれた大自然の姿です。

「東京」はもしかすると“ふるさと”からいちばん遠いところにあるのかもしれない。

しかし、ふとTVで見かけた言葉によって、このことを改めて考え直すことになりました。
その番組では、地方移住を決めた人がインタビューに答えていて、
所謂「田舎暮らし」を決めた理由を「子どものために」と言いました。
その言葉は「人の心を育むうえで、自然豊かな場所の方がふさわしい」と意図するものだと思います。
多くの人から共感される言葉であると思いつつ、
どこか引っ掛かりを感じる言葉でもありました。

そのとき、「東京が悪く言われてしまうのは悲しい」ことなんだと気が付きました。
育った土地への執着が、わたしにも確かに存在していたことに少し驚きつつ、
それはもしかすると「ふるさとへの想い」に似たものなのかもしれないなと思いました。

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