深い溝の外側で、私達を待つ者とは(BUBBLE-Bさん #3)

そもそも、「誰」って何だろう?

「誰」が「どう」なれば、私達は興味を持つだろうか?

知らない人が書いたSNSのつぶやきと、有名人がテレビで喋ったこと。同じ内容なら、どちらに興味を持つだろうか。
身近な友人が喋ったことと、有名人が喋ったことでは、どちらに耳を傾けるだろうか。

自分と「誰」との関係性は、文脈の積み重ねによって高まっていく。相手が一方的に知っているだけの有名人でも、こちらには文脈が積み重なっていく。
文脈が積み重なると「他人」から「知ってる人」へと昇格し、自分との距離が近くなる。

最強の「誰」は1親等、例えば親子の関係ではないだろうか。
子供は親の姿を見て影響され、親は子供の成長を見て喜ぶ。

親にとって「我が子」は最強のコンテンツだ。
子供のピアノ発表会があれば、その演奏はどんな凄腕ピアニストよりも最高に感動できるものだ。

他人からすれば、知らない子供がピアノを弾いたところで何の興味も湧かない。

それは冒頭の「部長はさざれ石」と同じ、内側と外側を分ける溝が生じているのである。

この溝は、先ほどの「自分との距離」によって深さが変わる。

これを数式にしてみるとこうなる。

I = 面白さ
脳が「面白い」と感じる度合い。「感動した」「かわいい」「格好いい」なども含まれる。

P = コンテンツパワー
コンテンツの内容の強さ。表現力、身体能力、思考力、各種技巧。そこに至るまでの過程やストーリーも含め、出来上がった作品の持つパワー。

Ct = 自分との文脈
自分と対象の人との文脈。「昔から知ってる」「出身地が同じ」「今に至る過程をずっと見ていた」「お世話になっている」「同じ釜の飯を食った仲」など。

D = 自分と対象との距離 (0から1まで)
1親等など近ければ0、全く知らない他人が1。

これらの変数を使った数式はこのようになる。

I = P x Ct x (1 – D)

「面白さ」とは、「コンテンツパワー」と「自分との文脈」の掛け算に、「自分との距離の近さ」を掛けたもの。

たとえば我が子のピアノの発表会だと、親の面白さはこうなる。

I = (低い演奏力 x 成長という文脈) x (1 – 0)

音楽性などではなく「成長という文脈」だけで感動するのが子供の発表会だ。
しかし、これが他人の親だとこう見える。

I = (低い演奏力 x 文脈ゼロ) x (1 – 1)

文脈などはないのでゼロ、距離も遠くて1なので、面白さは当然ながら0になる。

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