メモをとる(ふつうエッセイ #129)

僕は、今日もメモをとっている。

本を読みながら、映画を観ながら、美術館で作品を鑑賞しながら。

メモをとる場合、いちいち視線をノートに落とす必要がある。無論、メモをとらない方がスピーディに「こと」を進めることができる。情報社会の中で、1分1秒は大事にしたいものだ。

だけど、やっぱり僕は、今日もメモをとっている。

記憶定着という理由もある。人間の記憶とは儚いもので、ページを繰った瞬間から、それ以前のことをちょっとずつ忘れていく。初期衝動にも似た情報をメモに書き込むことによって、初期衝動の痕跡を残しておくことができる。

でも、今日もメモをとっている理由はそれだけではない。

たぶん、メモしている自分が好きなんだ。なんだかんだ。

仕事でハードワークしている人は、なんだかんだ仕事のことが大好きだ。1ヶ月に1,000km以上走るシリアルランナーも、なんだかんだ走ることから離れられない。

好き嫌いの問題でなく、飯を食っていくために仕方なくやっているんだ、という反論もあるだろう。

だが、どんな動機があろうとも、何かにコミットし継続しているということは、その「何か」に没入しているし、そんな自分を認めていることでもある。

メモをしなくても生きていける。本も読める。映画も観れるし、美術館で作品鑑賞もできる。

だけど、それだけでは「張り合い」がない。

メモをとることで、なんだか対象との間に「張り」が生まれる。その「張り」がなんといっても心地良い。

このことこそが、メモをとる最大の理由だと、僕は断言できる。