満塁のスクイズ(ふつうエッセイ #369)

中学生で野球部に所属していたとき。練習試合で、あろうことから満塁のチャンスが巡ってきた。

たしかノーアウト満塁だったと記憶している。僕は8番か9番だったと思うが、前の打者がポーン、ポーンと小気味良いヒットを放ったのだ。満塁機などなかなか巡ってこないので、ものすごく緊張しながら打席に入った。

結果からいうと、監督のサインはスクイズ。僕はポーンとフライを打ち上げてしまった。三塁走者だけでなく、一塁走者も戻りきれずにアウト。つまり、無死満塁が、一気にスリーアウトチェンジになってしまったのだ。

もちろん僕のミスだが、一塁走者は戻れたはずである。不幸なことにランナーのミスと重なったわけだが、ベンチのムードは最悪だった。「ふざけんな」と暴言を吐いたチームメイトの顔を、僕はいまだに憶えている。あの後守備についたが、幸いなことに打球は飛んでこなかった。けれど、仮に打球が飛んできたとしても、ちゃんと処理できた気はしない。頭が真っ白になっていたからだ。

その次の打席で、僕は代打を送られ、お役御免。挽回のチャンスは訪れなかった。

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あのとき僕は、自分自身の能力不足を責めた。

なんであんなに緊張してしまったのか。なぜバントを転がすことができなかったのか。そもそもスクイズのサインなんか無視してヒッティングすれば良かったんじゃないか……。

でも、あれから25年経って僕が思うのは、「なんであの場面でバントなんてやらせるのか」という監督への恨み節である。

満塁でスクイズするリスクは、かなり大きい。バントミスだけでなく、ちゃんと転がしたとしてもホームベースはフォースアウト(タッチせずにベースを踏めばアウトになる)で得点になりづらい。投手の意表をつくような場面でもなかったように思う。

というか、そもそも練習試合において、中学生に満塁でスクイズなんてさせるかね?と首を傾げてしまう。そこまで得点がほしいかね、勝ちたいかね、そんなことを思ってしまうのだ。あとは「めちゃくちゃ緊張していたおれに、気付いてくれよ!!!!!!」ということ。中学野球部の監督の役割って、そういうメンタルケアも重要だったんじゃないの?ということだ。

……恨み節や怒りは、自分で書いていても「みっともない」と感じてしまう。でも本来は、「みっともない」と感じる必要なんてないのだ。もちろん恨み節や怒りを書くにあたって最低限のテクニック的なものは必要だろう。直接感情を表現するのでなく、迂回しながら静かに怒りを表明するという方法もある。

でも、そういった前提をすっ飛ばしても、「おれはあの采配に納得いかない!!!!」と怒りたい。25年経っても怒りたい。「あの采配は間違っていた!!!!」と言いたい。

本人の前では、たぶん言えない。でも言うことによって、少しでも気分が紛れるのであれば、それは意味のあることだと思う。それが「みっともない」と思われたって良いじゃないか。

少なくとも僕はこれから、満塁の機会にスクイズを出すような人間には絶対にならないと、誓う。