ブラインドカーテン(ふつうエッセイ #431)

窓辺にて、今日は仕事をしている。

コワーキングスペースの窓辺にかかるのは、ブラインドカーテンだ。冬を拒絶するかのような陽気に恵まれた今日は、南方からの日差しが眩しい。

ちょっとだけ、ブラインドカーテンを調節する。あまり暗くならない程度に。完全にシャットダウンするのは、もったいない。少しくらいは、秋晴れの気配を感じていたい。

本当は、風も感じたいけれど、僕がいるビルは高層で、網戸なんてもちろんない。よほどの音量の緊急車両でない限り、外の音は聞こえない。僕がいるのは4階だから、網戸であれば、子どもの笑い声が入ってくるはずだ。

そういうのは、ビジネスでは必要ないとされているのだろうか。

確かにZOOMでミーティングをしていて、外から、子どもの笑い声が聞こえてきたら「あれ?」ってなる。相手によっては、不快にも思われるだろう。

でも、僕がその「相手」だったとしたら、不快になんて絶対思わないけどなあ。聞き取りづらかったら、「もう1回良いですか?」って聞けば良いだけだから。それくらいでスピードが損なわれるなんて言われたら、僕は、この世界で働くことを諦めるだろう。

ブラインドカーテンのような、窓があったらなあ。いや、あったんだよ、それが網戸なわけだし、開閉可能な機能もちゃんとついているはずなんだよ。

でも、いつしかそれは、「完全に閉じる」ことをデフォルトとして選択されてしまった。それって、誰が求めたんだろうか。たぶん、ごく少数の人たちが、僕らの預かり知らぬところで決めてしまったんだろう。

東京オリンピック、パラリンピックもそうだった。

あのとき、少なくとも開催される以前では、中止を求める声が多かったのだ。世論調査では半数を超えていた。世論調査が、全部の国民の意見を反映しているわけではないけれど、少なくない人たちは開催中止を求めていた。

それが「正しいこと」とは言わない。正しさなんて、色々な基準によって変わる。

だけど、少なくない人たちの要望は(それは本来、量の問題ではないけれど)、どこに消えてしまったのだろうか。どこに反映されていたのだろうか。

網戸のある、商業ビルがあったっていい。10年先も20年先も、風の音を感じられる場所で暮らしたいと思うのだ。