おっさんを自称する(ふつうエッセイ #429)

僕はいま38歳だけど、自分のことを「おっさん」「おじさん」だと思ったことがない。

「若者」だとも思っていないけれど、「おっさん」「おじさん」だとも思っていない。それだけの話なんだけど、世の中には自分のことを「おっさん」だと自称する人がそれなりに多くて戸惑ってしまう。

例えば、同じくらいの年齢の友人・知人と話をしていて。「俺たち、もうおっさんだからさ〜」という前提で話をされると、面食らう。「え、僕って、おじさんなのか?」という感じ。ただでさえコミュニケーション能力が高くないのに、出だしで躓いて挙動不審になってしまうのだ。

また、密かに憧れを持っていた方と話をしていて、「俺たちみたいなおっさんにはさ〜」と持ちかけられると、結構驚いてしまう。「え?あなたはおっさんなんですか!」、想定していなかった「おっさん」という人物像が加わってしまって、ちょっとだけ見方が変わってしまう。(憧れが損なわれるわけではないけれど)

でも、「おっさん」を自称する人の深層心理も、なんとなく理解はできる。要するに、言い訳したいのだ。

・おっさんなのに、インスタライブを始めている
・おっさんなのに、アイドルのライブに行く
・おっさんなのに、TikTokで動画をアップロードしてみた
・おっさんなのに、「君の名は。」で泣いてしまった

相手が「え?」と違和感を抱く前に、先手を打つ。

「いや、俺ってば、おっさんだけど、年齢と不相応なことしてるよね。分かってるんだけどさー」みたいな感じ。それで相手の心理的なハードルを下げようと努めているわけだ。

でも、はたして、それは効果的なことなのだろうか。

仮に、ある年齢になったら「おっさん」になるとしよう。若くして亡くなってしまわない限り、「おっさん」になるのは避けられない。

だとしたら、あえて「おっさん」を進んで名乗らなくても良いではないか。「お父さん」とか「おじいさん」とかと違って、「おっさん」には役割はない。スタンスとしての存在に過ぎないのだ。

ライターの経験がなくても、「ライターです」と名乗ることで、ライターの仕事が舞い込むこともある。「おっさん」はどうだろうか。「おっさん」を名乗ることで、できることはあるだろうか。

その辺は、「おっさん」の方が詳しいだろう。僕は、まだ「おっさん」になれそうにない。だから「おっさん」のことを理解できないし、もしかしたら理解できないままに「おじいさん」にジャンプアップしてしまうかもしれない。

おっさんという自称。そこには哲学があるかもしれない。たくさんの「かもしれない」は、いつまでも「かもしれない」のままだろうか。人間には、自分が関知できない世界というのが必ず存在するという証左とも言えまいか。言えるかもしれないし、言えないかもしれない。